から妾へ宛ててコンナ速達のお手紙が来たんですの。きょうの午後に平塚の患者を見舞いに行くんだが、帰りが遅くなるかも知れない。だから庚戌会へも行けないかも知れない。お前から臼杵先生によろしく申し上げてくれって言うお手紙なんですの。ほんとに白鷹先生ったら仕様のない。稼ぐ事ばっかし夢中になって……キット平塚の何とか言う銀行屋さんの処ですよ。お友達と下手糞《へたくそ》の義太夫の会を開くたんびに、白鷹先生を呼ぶんですから、それが見栄なんですよ。つまらない……」
「アハハ。そう悪く言うもんじゃないよ。そんな健康な、金持の患者が殖《ふ》えなくちゃ困るんだ。耳鼻科の医者は……」
「だって久し振りに先生と会うお約束をしていらっしゃるのに……」
「ナアニ。会おうと思えばいつでも会えるさ」
「……だって」
 と口籠りながら彼女は如何にも不平そうな青白い眼付で、私の顔を見上げた。……が……この時に私がモウ少し注意深く観察していたら、彼女のそうした不安さが尋常一様のものでなかった事を容易に看破し得たであろう。「会おうと思えばいつでも会える」と言った私の言葉が、彼女にドレ程の深刻な不安を与えたか……彼女をドンナに恐ろしい脅迫観念の無間地獄に突き落したかを、その時に察し得たであろう。……自分の実家の裕福な事を如実に証明し、同時に、自分の看護婦としての信用が如何に高いものが在るかをK大助教授、白鷹先生の名によって立証すべく苦心していた彼女……かの「謎の女」の新聞記事によって、この時すでに社会的の破滅に脅威されかけている彼女自身の自己意識を満足させると同時に、彼女自身だけしか知らない驚くべき謎に包まれている彼女の過去を、完全に偽装《カモフラージュ》しようと試みていた彼女の必死的努力は、本物の白鷹先生と私とが直接に面会する事によってアトカタもなく粉砕される事になるではないか。彼女は、彼女自身に作り上げている虚構《うそ》の天国の夢をタタキ破られて、再び人生の冷たい舗道の上に放逐されなければならなくなるではないか。こうした女性に取って、そうした幻滅的な出来事が、死刑の宣告以上に怖ろしいものである事は現代の婦人の……特に少女の心理を理解する人々の容易に首肯《しゅこう》し得るところであろう。
 事実、こうした破局に対する彼女の予防手段は、それが後、真に死物狂い式なものがあった。「厘毫の間違いが地獄、極楽の分れ目」という坊主の説教をそのままに、彼女は自分自身を陥れる、身の毛の辣立《よだ》つ地獄絵巻を、彼女自身に繰り拡げて行ったのであった。

 その九月も過ぎて、十月に入った二日の朝、彼女はまたも病院の廊下でプリンプリンと憤った態度をして私の前に立った。
「どうしたんだい。一体……また、機械屋の小僧と喧嘩でもしたのかい」
「いいえ。だって先生。明日は十月の三日でしょう」
「馬鹿だな。十月の三日が気に入らないのかい」
「ええ。だって毎月三日が庚戌会の期日じゃございません」
「あ……そうだっけなあ。忘れていたよ」
「まあ。そんなところまで白鷹先生とそっくり。先生は庚戌会へお出でになりませんの」
「ウン。白鷹先生が行くんなら僕も行くよ」
「この間お約束なすったんじゃございません」
「イイヤ。約束なんかした記憶《おぼえ》はないよ」
「まあ。そんならいいんですけど……」
「どうしたんだい」
「ツイ今しがた、白鷹先生からお電話が来ましたのよ。臼杵先生はまだ病院にいらっしゃらないのかって……」
「オソキ病院のオソキ先生ですってそう言ったかい」
「まあ。どうかと思いますわ。いつも午前十時頃しかいらっしゃいませんって申しましたら、きょうは風邪を引いて寝ちゃったから、庚戌会へは失敬するかも知れないって仰言るんですね。妾キッと先生とお約束なすってたのに違いないと思って腹が立ったんですよ。何とかして会って下さればいいのに……」
「そりゃあ会おうと思えば訳はないよ。しかし妙に廻り合わせが悪いね」
「ホントに意地の悪い。きょうに限って風邪をお引きになるなんて……妾、電話で奥さんに文句言っときますわ」
「余計な事を言うなよ。それよりも、今から妾がお勧めして臼杵先生をお見舞いに差し出そうかと思いますけど、友喰いになる虞《おそれ》がありますから、失礼させますって、そう言っとき給え」
「ホホホホ。またあんな事。それこそ余計な事ですわ」
「ナアニ。そんな風に言うのが新式のユーモア社交術って言うんだ。奥さんにも宜しくってね」
 こんな訳で白鷹先生に非ざる白鷹先生に対する私の家族の感じは、姫草ユリ子を仲介として日に増し親密の度を加えて来た。のみならず、ちょうど私が箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察に行く約束をした日の早朝に白鷹氏……否、白鷹先生ならぬ白鷹先生から電話がかかって、
「この間はすまなかった。いつも間が悪く
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