しているようで、多少の自信を腕に持っている私も、彼女のこうした外交手腕に対しては大いに謙遜の必要を認めさせられていた次第であった。
 私は彼女に二十円の給料を払っていた。これは決して法外に安い給料とは思わなかったが最近、彼女の功績を大いに認めなければならぬ状態を認めて、姉や妻と寄々相談をしていた次第であったが、折も折、ちょうどそのさ中に、実に奇妙とも不思議とも、たとえようのない事件が彼女を中心にして渦巻《うずま》き起って、遂に今度のような物凄い破局に陥ったのであった。しかもその破局のタネは彼女自身が撒《ま》いたもので、すでに彼女が私の処に転がり込んだ最初の一問一答の中に、その種子《たね》が蒔《ま》かれていたのであった。

 彼女の郷里は青森県の酒造家で、裕福な家らしく聞いていたが、その後の彼女の朗らかな性格や、無邪気な態度を透して、そうした事実を私等は毛頭疑わなかった。
 一番最初の問答に出た彼女の兄なる人物は、彼女が来てから間もなく倉屋の黒羊羹《くろようかん》を沢山《たくさん》に持って病院に挨拶に来た。もっともそれは私が帰宅したアトの事で、誰もその兄の姿を見届けたものはいなかったが、ちょうど私が自宅で夕食を終ってから、何かしらデザートじみた物が欲しいと思っているところへ、病院の姫草ユリ子から取次電話がかかって来た。
「先生。只今《ただいま》兄がお礼に参りましたの。先生がお好きって妾が申しましたからってね、倉屋の羊羹を持って参りましたの……イイエ。もう帰りましたの。折角お休息《やすみ》のところをお妨げしてはいけないってね。どうぞどうぞこの後とも宜《よろ》しくってね……申しまして……ホホ。そちらへお届け致しましょうか……羊羹は……」
「ウン大急ぎで届けてくれ。ありがとう」
 と返事をしたが、恐らく甘く見られたと言ってもこの時ぐらい甘く見られた事はなかったろう。
 彼女の郷里からと言って五升の清酒と一|樽《たる》の奈良漬が到着したのは、やはり、それから間もなくの事であった。何でも郷里の人に両親から言伝《ことづけ》た品物だとかで、例によって私が帰宅後に、病院に居残っていた彼女が受け取ったという話であったが、彼女が汗を流して提《ひっさ》げて来た酒瓶と樽にはレッテルも何もなく、きわめて粗末な、田舎臭い熨斗紙《のしがみ》が一枚ずつ貼り付けて在《あ》る切りであった。一口味わってみた私は、
「ウン。ナカナカ江戸前だな。ピインと来るね。奈良漬も三越のに負けない」
 と思わず口を辷《すべ》らしたが、恐らくそれが図星だったのであろう。樽の縄を始末していた彼女は、ただ赤面した切りでコソコソと病院に逃げ帰ったようであった。
 もっともその時に私は彼女の幸福を祈っている兄や両親の事を思い出して、相当御念入りにシンミリさせられていたから、彼女のそうしたコソコソした態度にはチットモ気付かなかった。彼女のアトを見送りながら、
「タッタ二十円しか遣らないのになあ」
 とテレ隠しみたような冗談を言ったくらいの事であった。
 ところでここまでは誠に上出来であった。この辺で止めて置けば万事が天衣無縫《てんいむほう》で、彼女の正体も暴露されず、私の病院も依然としてマスコットを失わずにすんだ訳であったが、好事《こうず》魔《ま》多し、とでも言おうか。彼女独特のモノスゴイ嘘吐きの天才が、すこし落ち着くに連れて、モリモリと異常な活躍を始めたのは、是非もない次第とでも言おうか。
 彼女の異常な天才が、K大耳鼻科の白鷹君と私の家庭を形容の出来ない、薄気味の悪い悪夢の中に陥れ始めた原因というのは、恐らく彼女自身も気付かなかったであろう、きわめて些細な出来事からであった。

 お恥かしい話ではあるが開業|※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》の好景気に少々浮かされ気味の私は、いつの間にか学生時代とソックリの瓢軽者《ひょうきんもの》に立ち帰っていた。つまらない駄洒落《だじゃれ》や、軽口や、冗談を連発して患者の憂鬱を吹き飛ばしたり、
「オイオイ。小さい解剖刀《メス》を持って来い。小さなメスだ。お前じゃないよ。間違えるな」
 と姫草に言ったりしたが、そのたんびにユリ子はキャッキャと笑って立ち働きながら言った。
「まあ臼杵先生は白鷹先生ソックリよ」
「何だい。その白鷹って言うのは……俺に断らないで俺に似てるなんて失敬な奴じゃないか」
「まあ。臼杵先生ったら……白鷹先生は、あなたよりもズットお年上で、K大耳鼻科の助教授をしていらっしゃるんですよ」
「ワア。あやまったあやまった。あの白鷹先生かい。あの白鷹先生なら、たしかに俺の先輩だ」
「ソレ御覧なさい。ホホホ。K大にいる時に白鷹先生は、いつも手術や診察の最中にいろんな冗談ばかり仰言って患者をお笑わせになったんですよ。鼓膜切開の時
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