んな道ならぬ忌わしい事をなさらなければならぬ校長先生の弱い、卑怯なお心が、その時の私にはこの上もなく御痛わしいものに思えて仕様がなくなっていたのでした。そうしてそのお痛わしい、淋しい校長先生を、仮令《たとい》どのような忌わしい方法ででもお救い申し上げて、正しい、明るい道にお帰りになるようにお諌《いさ》め申し上げるのが、私のような女に授けられた道ではないのでしょうか。それが私の持って生まれた運命なのではないでしょうか……とさえ思うようになっておりました。私には、
「この憐れな、淋しい老人を救ってくれ」
 と仰言ったお言葉が、校長先生の真実のお心から出たお言葉のように思えて仕様がなかったのでした。たとい、それが間違って私に仰言ったお言葉であったにしても……。
 私はもう、私の知らない間に虚無ではなくなっていたのです。校長先生の御蔭で、女としての純情に眼ざめ始めていたのです。
 ……底の知れないほど愚かな私……。

「大阪に行かんか」
 と父から相談をかけられたのはその朝食前《あさごはんまえ》の、応接間での出来事でした。いつもですと私の事に就いては、ずいぶん冷淡でした私の継母も、この相談には深い興味を持っておりましたらしく、眼を光らして私の傍の椅子に参りました。
 倹約家の父は珍しく金口を吹かしながら、いつになくニコニコした口調《くちょう》で申しました。
「お前は新聞記者になりたいって言った事があるだろう」
「ええ。そんな事を考えた事もありましたわ」
「写真も嫌いじゃなかったろう」
「ええ大好きですわ」
 父は、私がいろいろな新聞や雑誌に投書したり、写真サロンに入選したりしている事を知っているのに、どうしてコンナ事を改まって尋ねるのだろうとチョッと不思議に思いました。
「……だから、ちょうどいいと思うんだがね。大阪の新聞社で女の運動記者を欲しがっているんだ。女学校の運動部を訪ねてまわって、話を聞いたり、写真を撮ってまわったりするのが仕事だそうだがね。昨日わざわざ森栖校長先生が俺の役所(営林所)に訪ねて来られて、お前が承知してくれさえすれば、先方では願ったり叶ったりだと言っている。洋行も出来るようにして遣《や》ると言っているそうだから、コンナ良い口はまたとないと思う。俸給は百円でボーナスは三月分だそうだが、御承知ならば私が大阪へ電話をかけるから、直ぐにも出発出来るだろうって言う事だがね……」
 と言うお話でした。
 私はあの時に、よくあれだけ落ち着いておられたと思います。実際、三、四日前の廃屋の中の出来事よりも、この時に父から聞きました大阪行きのお話の方が、ガア――ンと私をタタキ潰したのでした。
 私はこの時ほど、私の気持を裏切られた事はありませんでした。校長先生が私を大阪へ遣ろうとしておられる……と言う事が、私を絶望的に悲しませたのです。
「……考えさして下さい」
 と返事をするうちに私はもう涙で胸が一パイになってしまいました。何故だかわからないままシクシクとシャクリ上げ始めました。
 それを見ました父はまた、椅子の上から一膝進めて申しました。
「これぐらい、有難い事はないじゃないか……大学を卒業した男の学士様でさえ三十円、二十円の口がない世の中だよ。考える事なんかないじゃないか……それとも何かい。お前には、どうしても大阪へ行けない理由《わけ》でも在るのかい」
 私は後にも前にも、あんなに厳粛な父の声を聞いた事は一度もないのでした。ですから思わず顔を上げて両親の顔を見まわしますと、両親は父の言葉付以上に、大罪人でも訊問しているかのように厳粛な、剛《こ》わばった顔をして、白々と私を凝視しておりましたので、私はいよいよビックリしてしまいました。
 それでも私は何の気も付かずに頭を左右に振りながら申しました。
「いいえ。別に何にも、そんな理由はありませんわ。ただもう二、三日考えさして頂きたいだけなのです。一生の事ですから……」
 両親はこの時にチラリと異様な白い眼を見交したように思います。それから父は改まった咳払いを一つしました。
「ふうむ。それならば尋ねるが、お前は何か私たちに隠している事が在るのじゃないかい。そのために大阪に行かれないのじゃないかい」
 私はハッと胸を衝《つ》かれましたが、すぐに気を落ち着けて、何気なく頭を左右に振りました。ため息を一つしながら……。
「いいえ。何も……」
「それじゃ……お前は再昨日《おとつい》の晩、何処へ行っていたのだえ」
 継母が氷のように冷たい静かな声で、横合いから申しました。
 私は音のない雷に打たれたようにドキンとしながら、ガックリと俛首《うなだ》れてしまいました。多分、私の顔は死人のように青|褪《ざ》めていたことでしょう。ただもう気がワクワクして胸がドキドキして、身を切るような涙がポタポタと
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