。ええ。全部そうして頂戴。一つ二つぐらいだと却って疑われるから。ええ。どうぞ願います。こっちは大丈夫よ。ホホホ」
眉香子は平然として受話機を掛けながら青年をかえりみた。
「二箱でいいんですね」
青年は返事の代りにピョコンと勢いよく立ち上った。卓子《テーブル》を一廻りして眉香子の真正面から接近《ちかづ》くと、眉香子の両手を自分の両手でシッカリ握り締めた。感激の涙をハラハラと流した。
「……ありがとう……御座います。感謝に……堪えません」
「まあ。あんなこと……わたくしこそ感謝に堪えませんわ。わたくしみたいな女を見込んで下すって……」
といううちに立ち上って青年の両手をシッカリと握り返した。青年は肩をすぼめて身震いした。眉香子の魅力に包まれたように……けれども間もなく静かに、その手を振りほどいた。二、三歩後に下って恭《うやうや》しく一礼した。
「それでは……これで……お暇《いとま》を……この御恩は死んでも……」
「アラマア……」
眉香子は追いかけるように二、三歩進み出た。強《し》いて青年の手を取って、今まで自分が坐っていた椅子に、青年の身体《からだ》を深々と押し込んだ。
「まだ、荷物とチェッキが出来ないじゃ御座いませんか。それまで、どうぞ御ゆっくりなすって下さいませよ」
「……でも……それはアンマリ……それに私は今夜のうちに門司に出て、明朝早く荷物を受け取って、明後日、神戸の……」
「それでも荷物と一緒の汽車なら宜しいじゃ御座んせん」
「……そ……それは……そうですが……実は……」
「何か御差支えが御座いまして……」
「実はその……友人が四名ほど……福岡の東亜会員が四名ほど、私を門司まで見送ると申しまして、私と同じ汽車で発《た》つ予定で、直方の日吉旅館に来ておりますので……是非とも……」
「もうお会いになりまして……」
「九時ごろの汽車で来ると申しておりましたが……」
「それでもまだ二時間近く御座いますわ。そんなお友達の御親切も何で御座いましょうけれども、今夜、御一緒の汽車で門司にお着きになってからでも御ゆっくりとお話が出来ましょう」
「そ……それは……そうですが……」
「わたくしもホンノ仮染《かりそめ》の御識り合いでは御座いましょうが、心ばかりの御名残惜しみが致したいので御座いますからね。それくらいのおつき合いは、なすっても宜《い》いじゃ御座んせん。爆薬《ダイナマイト》のお礼に……ホホ……」
「でも……」
「……でもって何です。妾《あたし》のいうことをお聴きになれなければ、一箱も差し上げませんよ。ホホホ……」
青年は眩《ま》ぶしそうに眉香子を見上げた。眉香子の魅力に負けたように深々と緞子の椅子に沈み込んだ。そうした自分自身を淋しくアザミ笑いながらパチパチと眼をしばたたいた。
「……でも、勿体ないことだわねえ。アンタがたみたいな立派な若い人が十何人も、お国のためとはいいながら、今から半年も経たないうちに粉ミジンになってこの地上から消えてしまうなんて……あたしシンから惜しい気がするわ」
新張家の豪華を極めた応接室の中央と四隅のシャンデリアには、数知れない切子球に屈折された、蒼白な電光が煌々《こうこう》と輝き満ちている。その中央の大卓子の上にはトテモ炭坑地方とは思えない立派な洋食の皿と、高価な酒瓶が並んでいる。その傍の緋繻子張りの長椅子の中に凭《よ》りかかり合うようにしてグラスを持っている眉香子と青年……。
青年は上衣と胴衣《チョッキ》を脱いでワイシャツ一つのネクタイを緩めているし、眉香子も丹前を床の上に脱ぎ棄てて、派手な空色地の長|襦袢《じゅばん》に、五色ダンダラの博多織の伊達巻を無造作に巻きつけている。どちらももう相当に酔いがまわっているらしく、眼尻が釣り上がって異様に光っている。
「惜しい気がするわ。ねえ。そうじゃない」
今一度シンミリとそういううちに眉香子は、その肉つきのいい白い腕を長々と青年の肩に投げかけた。青年もそれをキッカケに左手を眉香子の膝の上にダラリと置いた。グラグラと頭をシャンデリアの方向に仰向けて、健康そうな、キラキラ光る白い歯を見せた。
「ナアニ。ハハハ。どうせ僕等は、めいめい勝手なゼンマイ仕掛けの人形みたいなもんですからね。そのゼンマイのネジが解けちゃってヨボヨボになって死んじゃうだけの一生なら、まったく詰まらない一生ですからね……ですからまだピンピンしているうちに、そのゼンマイ仕掛けを自分でブチ毀してみなくちゃ、自分で生きてる気持が解《わか》らないみたいな気持に、みんななっているんです。僕等はモウ、早く自分の生命を片づけたい片づけたいって、イライラした気持になっているんですよ。まったくこのまんまじゃ詰まらないですからね」
「とてもモノスゴイのね」
「ええ。自分ながらモノスゴクて仕様がないんです。なんでもいいから思い切って自分をぶっつけてガチャガチャになってしまいたいんです」
「アンタみたいな方は恋愛もなにも出来ないのね」
「恋愛……恋愛なんて……ハハハハ」
「マア。恋愛なんて……て仰言るの……あたしこれでもチャント貞操を守っている未亡人なのよ。まだネジが切れちまわないうちに相手をなくしちゃって、イヤでもこんな淋しい後家《ごけ》を守っていなくちゃならなくなった女なのよ」
「恋愛なんて……恋愛なんて……ハハハ。恋愛なんて何でもないじゃないですか。ほんの一時の欲望じゃないですか。永遠の愛なんてものは男と女とが都合によって……お互いに許し合いましょうね……といった口約束みたいなもんじゃないですか。お金のかからない遊蕩《ゆうとう》じゃないですか」
「まあ。ヒドイことをいうのね」
「当り前ですよ。この世の中はソンナ様な神秘めかした嘘言《うそ》ばっかりでみちみちているんですよ。だから何もかもブチ壊してみたくなるのです。何もない空《から》っぽの真実の世界に返してみたくなるのです」
「アンタ……それじゃ虚無主義者ね」
「そうですよ。虚無主義者でなくちゃ僕等みたいな思い切った仕事は出来ないんです。ゾラか誰か言ったことがありますね。――科学者の最上の仕事は、強力な爆薬を発明して、この地球と名づくる石ころを粉砕するにあり。真実というものがドンナものかということを人類に知らしむるに在り――とか何とか……」
「まあ大変ね。ゾラはきっとインポテントだったのでしょう」
「ハハハハ。こいつは痛快だ。さすがは昔の銀幕スター、眉香子さんだけある。そういって来ると虚無主義者や共産主義者はみんなインポテントになるじゃないですか」
「そうよ。この世に興味を喪失《なく》してしまった人間の粕《かす》みたいな人間が、みんな主義者になるのよ」
「そんなことはない……」
「あるわ。論より証拠、貴方に死ぬのをイヤにならせて見せましょうか」
「ええ。どうぞ……」
「きっと……よござんすか」
「しかし……しかしそれは一時のことでしょうよ。明日になったら僕はまたキット死にたくなるんですよ。今までに何度も何度も体験しているんですからね。ハハハハ」
「ホホホホ。それは相手によりけりだわ。妾がお眼にかける夢は、そんな浅墓《あさはか》なもんじゃないわ。アトで怨んだって追つかない事よ」
「ワア。大変な自信ですね。しかしイクラ何でも僕に限って駄目ですよ。世界中のありとあらゆる夢よりも、僕の心に巣喰っている虚無の方がズット深くて強いんですからね……明日になったらキット醒めちゃうんですから……」
「理屈を言ったって駄目よ。明日になって見なくちゃわからないじゃないの。醒めようたって醒め切れない強い印象を貴方の脳髄の歯車の間に残して上げるわ……あたしの力で英、伊戦争を喰い止めてお眼にかけるわ」
「アハハハ。これは愉快だ。一つ乾杯しましょう」
乾杯がすむと眉香子は立ち上って、正面中央のマントルピースの下のスイッチをひねって五つのシャンデリアの光を一時に消してしまった。それから部屋の隅の紐を引くと、部屋の三方の眼界を遮っていたゴブラン織の窓掛がスルスルと開《あ》いた。二人の腰かけている長椅子の真正面の左手の窓硝子越しに遙かに見える新張炭坑の選炭場の弧光灯がタッタ一つと、その下でメラメラと燃え燻《くすぶ》っている紅黒いガラ焼の焔が、ロシヤ絨氈のように重なり合って見える。アトは一面に星一つない寂莫たる暗黒の山々らしい。
部屋の中がシインとなってしまった。時々軽い衣擦《きぬず》れの音が聞こえるほかは何の物音もない。窓の外の暗黒と一続きのままシンシンと夜半に近づいて行った。
……突然……部屋の隅の思いがけない方向で……コロロン、コロロン、コロリン……トロロロンンン……という優雅なオルゴールのような音がした。それは十時半を報ずる黄金製の置時計の音であった。
すると、ちょうどそれを合図のように、部屋の中へ、眼も眩《くら》むほど明るい光線がパッとさし込んで来たように思われたので、今まであるかないかに呼吸《いき》を凝らしていた二人は、思わず小さな叫び声をあげてパッと左右に飛び退いた。二人とも申し合わせたように頭の上のシャンデリアを仰いだが、シャンデリアは依然として消えたままで、ただ数限りもない硝子の切子玉が、遠い遠い窓の外をキラキラと反射しているキリであった。
二人はまたもヒッシと抱きあったまま、屹《きっ》となって窓の外を見た。
見よ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
窓の外のポプラ並木の間から、遙か向うの暗黒の中に重なり合っていた選炭場、積込場、廃物の大クレーン、機械場、ポンプ場、捲上場《まきど》、トロ置場、ボタ捨場、燃滓《かす》捨場に至るまで、新張炭坑構内に何千何百となく並んでいた電灯と弧光灯が、一時にイルミネーションのように輝き出して、広い涯てしもない構内を、羽虫の羽影までも見逃がさぬように、隅から隅まで煌々と照し出しているではないか。その光の群れがサーチライトのように一団の大光明となって二人の真正面の窓から流れ込んで来て、金ピカずくめの応接間の内部を白昼のようにアリアリと照し出しているではないか。
青年は今一度眼をこすった。顔面をこわばらせたままその光の大集団を凝視した。
それは一本の木も草もない、荒涼たる硬炭焼滓《ボタかす》だらけの起伏と、煙墨《スス》だらけの煉瓦や、石塊や、廃材等々々が作る、陰惨な投影の大集団であった。人間の影一つ、犬コロ一匹通っていない真の寂莫無人の厳粛な地獄絵図としか見えなかった。その片隅に、もう消えかかったガラ焼の焔と煙が、ヌラヌラメラメラと古綿のように、または腐った花びらのように捩《よじ》れ合っているのであった。
青年は眉香子の中でガタガタと震え出した。恐怖の眼をマン丸く、真白くなるほど見開いて、窓の外の光明を凝視したまま、顎をガタガタと鳴らし始めた。わななく指先で眉香子の腕を押し除けて、棒のようにスッポリと立ち上った。
それはさながらに地獄に堕ちた死人の形相であった。髪が乱れ、ズボン釣がはずれ、ネクタイがブラ下ったまま、白い唇をガックリと開き、舌をダラリと垂らし、膝頭をワナワナと戦《おのの》かせながら、夢遊病者のように両手を伸ばしてヒョロヒョロと部屋を出て行こうとした。唇を噛んだまま見送っていた眉香子が、長襦袢の裾を掻き合わせながら呼び止めた。
「アラ。あんた、ダシヌケにどうしたの……」
「…………」
「恐いの……」
「…………」
「マア、何がソンナに怖いの……まあ落ちついてここにいらっしゃいよ。何も怖がることないじゃないの……」
「…………」
「アレはね……あの電灯《あかり》はね。何か事故が起った時に事務所の宿直がアンナことするのよ。大したことじゃないのよ、チットモ……」
「…………」
青年は一言も返事をしなかった。青鬼に呼び止められた亡者のような悲し気な顔でチラリと、恐ろしそうに眉香子の顔を振り返っただけで……それでもイクラか落ちついたらしく、長椅子の上に引っかけた上衣を横筋違いに引被りながら、ヨロヨロと応接間を出て行った。眉香子も声ばかりで追っかけて、椅子から立ち上ろうともしなかった。
「まあ、変な人ねえ、ア
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