寄りましたのが初まりで……」
「うむうむ……」
「年寄の冷水とは存じましたが、御覧の通り最早《もはや》六十の峠を越えました下り坂の私。空車《からぐるま》を引いている折柄で御座います、戻り駄賃に一世一代の大物を引いて見ようか……と存じますと一気に釣り出された仕事で御座いましたが、タッタ一足の事で石月様に先手を打たれまして……ヘヘヘ。面目次第も御座いませぬ」
「イヤイヤ。それにしても流石《さすが》は老練じゃ。並々の者に足跡を見せる女ではないわい」
「……ところでお言葉はお言葉と致しまして、ここに一つの不審が御座りまするが如何で御座りましょうか。御無礼とは存じますれど……」
「何の何の。何の遠慮が要ろう。何なりと存分に問うて見られい」
「ヘヘイ。有難う存じまする。それではお伺い申上げまするが、先生様が、石月様のお話から、仇討《あだうち》免状の正体カラクリを、お覚《さと》りになりました次第と申しまするは……」
「アハアハ。何事かと思うたればその事か。それなれば何でもない。他愛もない事じゃ」
「……と……仰せられまするは……」
「うむ。追ってお尋ねを受ける事と思うが、実は身共も少々あの女に掛り合いがあっての」
「ヘエッ。これは亦、思いも寄りませぬ」
「ほかでもない。忘れもせぬ昨年の十月の末の事じゃ。久方振りに殿の御用で江戸表へ参いっておる中《うち》に、あの願書の当の本人、友川矩行という若侍から父の仇敵《かたき》と名乗り掛けられてのう……」
「ヘエッ。いよいよ以て不思議なお話……」
「おおさ。しかも馬場先の晴れの場所で、助太刀《すけだち》らしい武士が二人引添うておったが聊《いささ》か肝を奪われたわい。面目ない話じゃが聊か身に覚えのない事じゃまで……」
「成る程……御尤《ごもっと》も様で……」
「しかし迂濶に相手はならぬ。何か仔細がある事と思うたけに咄嗟《とっさ》の間《ま》に身を引きながら、如何にも身共は黒田藩の浅川一柳斎に相違ないが、何か拙者を讐仇《かたき》と呼ばれる仔細が御座るか。然るべき仇討《あだうち》の免状でも持っておいでるかと問うてみたればそれは無い。在るには在ったが、浅草観世音の境内で懐中物と一所に掏《す》られてしもうたと云うのじゃ」
「ハハア。どうやら様子がわかりまする」
「うむうむ。そこで……然らば、お気の毒ながら仇呼《かたきよ》ばわりは御免下されい。第一毛頭覚え
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