きに反《そ》り返っているので、ウッカリすると辷《すべ》り落ちそうな気がしたからだ。今朝《けさ》早く、汽車|弁当《べん》を一つ喰った切り、何も腹に入れていなかったせいかも知れないが……。
ヤットの思いで上に登り付くと、小使が仁王立ちになって待っていた。それでも最上級の敬語であったろう……、
「ココへ這入って待って居《お》んなさい。今津守さんが見えますけにナ……」
と云うと、又もドシンドシンと雷鳴を轟《とどろ》かしながら暗い階段を降りて行った。
……又、心細くなりそうだな……と思い思い出来るだけ心細くならないように……イヤ……出来るだけ威勢よく見せかけるために部屋の中を見まわした。
多分、応接室のつもりだろう。穴だらけの青|羅紗《ラシャ》を掛けた丸|卓子《テーブル》の左右に、歪《ゆが》んだ椅子がタッタ二つ置いてある。右手の新聞|原紙《ゲラ》で貼り詰めた壁の上に「南船北馬……朴泳孝《ぼくえいこう》」と書いた大額が煤《すす》け返っている。それに向い合《あい》に明治十二年発行の「曙《あけぼの》新聞」の四|頁《ページ》が、硝子《ガラス》枠に入れて掛けてあるのはチョット珍らしかった。泥だらけの床の片隅に、古い銅版がガチャガチャと山積してあるのは、地金屋《じがねや》にでも売るつもりであろうか。……そんなものを見まわしているうちに思いがけなく腹がグーグーと鳴り出してタマラない空腹を感じ出した。そこで吾輩は意気地なく杖を突張って我慢しようとしているところへ、うしろの方に人の気はいがしたので、ビックリして振り向いてみると、すぐに奇妙な恰好をした小男と顔を合わせた。
背の高さは五尺足らず……ちょっと一寸坊といった感じである。年は四十と七十の間ぐらいであろうか。色が真黒で、糸のように痩せこけているので見当が付きにくい。白髪頭を五|分刈《ぶがり》にして分厚い近眼鏡をかけて、顎の下に黄色い細長い山羊髯《やぎひげ》をチョッピリと生やしている。それが灰色の郡山の羽織袴に、白|足袋《たび》に竹の雪隠草履《せっちんぞうり》という、大道易者ソックリの扮装で、吾輩の直ぐ背後《うしろ》に突立っていたんだからギョッとさせられた。今の腹の音を聞かれたんじゃないかと思って……。
その山羊髯の一寸坊|爺《じい》は、身体《からだ》に釣合った蚊の泣くような声を出した。
「お待たせしました。わたし……津守です……」
と云い云い傍《そば》の椅子を指したので、イキナリ腰をかけようとすると忽《たちま》ち引っくり返りそうになったから、慌てて両足を突張った。椅子の足がみんなグラグラになっているのだ。吾輩は下ッ腹を凹《へこ》ましてステッキを突張った。
山羊髯の爺《おやじ》は、その吾輩の真正面に、丸|卓子《テーブル》を隔ててチョコナンと尻を卸《おろ》した。向側《むかいがわ》の椅子も相当歪んでいるようであるが、引っくり返らないのは身体《からだ》が軽いせいであろう。その貧弱な事、踏台にハタキを立てかけた位にしか見えない。コンナ奴の下になって働らくのか……オヤオヤと思いながらも吾輩は、絶体絶命の雄弁を揮《ふる》って採用方を願い出た。今までの事を残らずブチ撒《ま》けてしまった。
「……だからモウすっかり屁古垂《へこた》れちゃったんです。編輯の給仕から、速記者から、社会部の外交まで通過して来るうちに、悪い事のアラン限りを遣り尽して来たんです。そうしてモウすっかり前非後悔しちゃったんです。これから一つ地道《じみち》になって働らいてみようと思いましてね……どんなボロ新聞社でもいいから……イヤナニその……何です……僕を買ってくれる人の下ならドンナ仕事でもいい……月給なんかイクラでもいい……やってみようと思ってお訪ねした訳なんですが……東京中の新聞社と警察と下宿屋連中にお構いを喰っちゃったんで行く処が無いんです……今年二十四なんですが……いかがでしょうか……」
そう云う吾輩の顔を山羊髯はマジリマジリと見ていた。吾輩が臓腑《はらわた》のドン底の屁《へ》ッ滓《かす》の出るところまで饒舌《しゃべ》り尽してしまっても、わかったのか、わからないのかマルッキリ見当が付かない。朝鮮渡来の木像じみた表情で、眼をショボショボさせながら、片手で吾輩の名刺をヒネクリまわしているキリである。
吾輩もその顔を見詰めて眼をショボショボさせた。真似をしたんじゃない。気味が悪くなって来たからだ。同時に中風病《ちゅうぶうや》みみたような椅子の上に、中腰になっている吾輩の両脚が痺《しび》れそうになって来た。汚れた名刺を取返して、諦らめて帰ろうかと思い思い、尻をモジモジさせていると、又も下ッ腹が大きな音を立ててグーグーと鳴った。今度こそ慥《たし》かに聞こえたに違いない。
吾輩は心細いのを通越して涙ぐましくなった。見得も栄《は》えも
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