さが熱鉄のように彼の掌《てのひら》に感ぜられると同時に、彼は或る素晴らしいヒントを得たのであった。サイアク、オククウの謎が解けたのであった。
彼は星田が此頃、極端な西鶴の崇拝者になっていることを知っていた。ことに其の中でも「桜蔭比事」の研究に没頭していて、○○館発行の古い西鶴全集の下巻を振りまわしながら「……ドウダイ津村君……最近、和洋を通じてドエライ発達を遂げた犯罪と探偵小説のトリックのどの一つでも、此の中の何処からか探し出すことが出来ると思うんだがね」と怪気焔を揚げていたことを、昨日の事のように記憶して居たのであった。だから彼は、殺人の嫌疑を受けた星田が、警視庁の裏手で自動車から降りた時にヤット気付いた最後的なヒントを、絶体絶命の思いで村井に伝えて貰おうとした。その物凄いセツナイ努力を、こうした思いもかけぬ方法で、彼自身に受け取ることが出来たものであったろう。
彼は慌てて外套《がいとう》の襟を直した。帽子を冠り直した。タッタ今出て来た新聞社の玄関から、受付の女に咎《とが》められるのも構わずに、一気に階上へ駈け上ると、何度も来たことのある調査部の扉《ドア》をたたいて中に這入った。顔なじみの部員に古い○○館出版の西鶴全集の下巻を出して貰って。それでも帽子を脱いで横に置きながら第六十九頁を開いた。サイカク……六九……サイカク、六九と口の中でくり返しながら……。
――本朝桜蔭比事。巻の四。第七章――「仕掛物は水になす桂川」
昔、京都の町が静かで、人々が珍らしい話を聞き度がっている折柄であった。五月雨の濁水滔々たる桂川の上流から、新しい長持に錠を卸して、上に白い御幣《ごへい》を置いたものが流れて来た。そこで拾った人間が、御前へ差出して処分方を伺い上げたものであったが、開かせて御覧になると、中には古こけた髑髏《どくろ》が五個と、女の髪毛が散らばっていたので、皆、肝を消して震え上った。然《しか》るに、お上では格別に驚かれた様子も無いばかりか、あべこべに拾った人間をお叱りになって、「おのれ。無用の者を見付けて人を騒がせるヤクタイ者。これより直ぐに四条河原へ行って、今度、桂川を流れ下った長持の風説を、芝居に仕組んで興行することまかりならぬと、乞食役者どもへ固く申付けよ」と仰せられた。これは狂言の種に苦しんだ河原乞食どもの仕業と、すぐにお気付きになったからで……云々……(意抄)
此処まで読んで来た津村はパッタリと本を閉じた。そのまま宙に吊るされたような恰好で、眼を上釣らせたまま調査部を出て行った。呆《あき》れて見送っていた調査部員が注意しなかったならば彼は、帽子を置き忘れて行ったかも知れない。
「これが……これが……種に苦しんだ活動屋の思い付きだろうか……星田の推理した『完全な犯罪』の真相だろうか……これが……これが……」
津村は頭がジイーンと鳴り出したまま、こうした疑いを氷のように背骨に密着させて新聞社の階段を降りた。棒のように固くなったまま眼の前に停止したタクシーに乗り込んだ。
底本:「「探偵クラブ」傑作選 幻の探偵雑誌8」光文社文庫、光文社
2001(平成13)年12月20日初版1刷発行
初出:「探偵クラブ」
1932(昭和7)年12月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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