とも忘れてしまって……。
 しかも、その宝石が、間もなく私を身の毛も竦立《よだ》つ地獄に連れて行こうとは……そうしてリヤトニコフの死後の恋を物語ろうとは、誰が思い及びましょう。

       四

 私共の居た烏首里《ウスリ》からニコリスクまでは、鉄道で行けば半日位しかかからないのでしたが、途中の駅や村を赤軍が占領しているので、ズット東の方に迂廻して行かなければなりませんでした。それは私共の一隊にとっては実に刻一刻と生命《いのち》を切り縮められるほどの苦心と労力を要する旅行でしたけれども、幸いに一度も赤軍に発見されないで、出発してから十四日目の正午頃に、やっとドウスゴイの寺院の尖塔《せんとう》が見える処まで来ました。
 そこは赤軍が占領しているクライフスキーから南へ約八露里(二里)ばかり隔った処で、涯《はて》しもない湿地の上に波打つ茫々《ぼうぼう》たる大草原の左手には、烏首里鉄道の幹線が一直線に白く光りながら横たわっております。その手前の一露里ばかりと思われる向うには、コンモリとしたまん丸い濶葉樹《かつようじゅ》の森林が、ちょうどクライフスキーの町の離れ島のようになって、草原《くさはら》のまん中に浮き出しておりました。この辺の森林という森林は大抵鉄道用に伐《き》ってしまってあるのに、この森だけが取り残されているのは不思議といえば不思議でしたが……その森のまん丸く重なり合った枝々の茂みが、草原の向うの青い青い空の下で、真夏の日光をキラキラと反射しているのが、何の事はない名画でも見るように美しく見えました。
 ここまで来るともうニコリスクが鼻の先といってよかったので、私共の一隊はスッカリ気が弛《ゆる》んでしまいました。将校を初め兵士達も皆、腰の処まである草の中から首を擡《もた》げて、やっと腰を伸ばしながら提げていた銃を肩に担ぎました。そうして大きな雑草の株を飛び渡り飛び渡りしつつ、不規則な散開隊形を執《と》って森の方へ行くのでしたが、間もなく私たちのうしろの方から、涼しい風がスースーと吹きはじめまして、何だか遠足でもしているような、悠々とした気もちになってしまいました。先頭の将校のすぐうしろに跟《つ》いているリヤトニコフが帽子を横ッチョに冠《かぶ》りながら、ニコニコと私をふり返って行く赤い頬や、白い歯が、今でも私の眼の底にチラ付いております。
 その時です。多分一露里
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