絵等によって象徴された趣味傾向の堕落と、それによって暗示された民心の行き詰まりが、新しい忠君愛国思想と、社会組織を翹望《ぎょうぼう》する維新の革命を生んだ事実は、誰しも否定し得ないところであろう。
 ところがその明治維新以来、西洋文化の輸入に影響されて、日本人の趣味が一層急劇に低下して来た。以前から(徳川時代から)忌避され軽蔑されていた肉慾描写や不倫の世相が、自然主義の輸入以来、臆面もなく逆照され初めて、往昔、最低級の芸術として扱われていた作品が、堂々として一般民衆の趣味傾向の王座を占むる事となった。同時に永い間因襲され、伝統されて来た人間道が不合理視され、不自然視されて、禽獣道が合理視され、自然視されるようになった。それは在来、衣裳美を主として描かれていた絵画が、洋画の輸入以来、裸体美を主眼として描かれるようになったのと同じ程度の変化であった。
 それが吾々日本人にとって、たしかに新しい傾向であった事は、やはり誰しも否定し得ないところであろう。
 ところが又その明治末期から、大正以降に於ける探偵小説の輸入と流行は、そうした傾向を更に低級化し、深刻化した。モット尖鋭な肉慾や、変態心理や、モット露骨な犯罪心理、病的幻覚錯覚に深入りし礼讃する趣味、傾向を日本人に逆照して見せた。そうしてその逆照手段が探偵小説の本格、変格のあらゆる角度に向って急速に分析され、分離され、印象化され、感覚化され、表現化され、構成化され、超現実化され、未来化され、ダダ化され、ユーモア化され、ノンセンス化されて行った。
 だから探偵小説は、嘗《かつ》て流行していた、あらゆる種類の文芸の中から進化し生まれた、より新しい、より深い、より痛い文芸であった。一切の芸術の伝統精神と形式から離脱して、人間の心理を一層深くアケスケに抉《えぐ》り付け、分析し、劇薬化し、毒薬化し、更に進んで原子化し、電子化までして行くための芸術界の鬼っ子であった。芸術の神を冒涜する事を専門とする反逆芸術であった。
 昔の芸術は衣裳美の礼讃を以て能事終れりとした。それが更に進んで、その衣裳を剥ぎ取った肉体美の鑑賞を事とする中世芸術にまで進化した。それが現代……すなわち探偵小説時代に入っては更に進んで、その肉体を切裂き、臓腑を引出し、骸骨を寸断し、血液から糞尿まで分析し、検鏡して、その怪奇美、醜悪美を暴露し、戦慄しようとしているのである。
 探偵小説の使命はそこに生まれた。探偵小説の真使命はここに在った。本格と変格、いずれの名に於てもここ以外になかった。
 こうした趣味、傾向は科学を愛好する人間の趣味、傾向、もしくはモット大きい本能と一致している。
 科学は、すべての尊といもの、美しいもの、不可思議なものを信じなかった。就中《なかんずく》、神によって作られた宇宙万有の美しさと不可思議さを絶対に信じなかった。その神秘をドン底まで探偵して、電子の作用に過ぎない事を計数の上で嘲笑し、その信仰心理を徹底的に分析して、|+−0《プラスマイナスゼロ》式な利己人の表現に過ぎないと喝破し、一切の美を醜悪な、又は単純無趣味な、直線、もしくは曲線にまで分解し、罵倒しつくした。宗教は阿片《インチキ》である。芸術は自涜である。恋愛は性欲以外の何者でもないとまで弁証して痛快がるに到った。
 この故に古来の幾多の科学者――近代文明の創設者は皆、神と道徳に反逆するところの、恐るべき探偵趣味の所有者であった。従ってその発表するところの論文は皆、最も実際的な探偵趣味の発露であり、その作り出すところの薬品と器械は皆、神と自然とを破壊し嘲罵するところの犯罪用具そのものであった。
 この故にコペルニクスの探偵趣味は生命《いのち》がけの地動説を発表して聖書のインチキを曝露し、羅馬《ローマ》法王を狼狽、震駭《しんがい》させた。この故にニュートンの探偵趣味は一個の林檎から万有引力の緒を掴んで、大宇宙の神秘をペン先に飜弄しつくして、まだ見ぬ海王星の存在を海王星自身に立証させた。この故に名探偵ダーウィンと、ウォーレスは同時に万有進化の原則を看破し、「人間は猿の子孫である。神の後裔《こうえい》ではない」と結論して、全人類をガッカリさせた。
 この故にこの千古不滅の探偵本能を、科学が生むところの社会機構に働きかけさせ、この無良心無恥な、唯物功利道徳が生むところの社会悪に向って潜入させ、その怪奇美、醜悪美を掲出し、そのグロ味、エロ味の変態美を凄動させ、その結論として、その最深部に潜在する良心、純情をドン底まで戦慄させ、驚駭させ、失神させなければ満足しない芸術を探偵小説と名付けられる事になったのである。
 この故に探偵小説は現在の如く、ほかの芸術のアパートに間借りして、小さくなって生活すべき性質のものでない。近い将来に於て、過去の一切の芸術を圧倒し、圧
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング