ブラシを尻のポケットに仕舞《しま》って揚々と往来へ出た。
 次に向うの活版屋に這入って名刺を注文して前金を払った。その次には安洋食店に這入って酒を飲みながら鱈腹《たらふく》詰め込んだ。その払い残り五円で花束を買って、往来の靴|繕《つくろ》いを見付けて靴を磨かせた。最後に活版屋へ行って名刺を受取った。

     ―― 10[#「10」は縦中横] ――

 徳市は星野家を訪うて名刺を出した。
 ハイカラな女中が出て来て奥へ取り次いだがやがて引返して来て応接間に案内した。
 徳市は応接間に這入るとポケットから葉巻を出して吹かし初めた。
 星野智恵子はさも嬉し気に這入って来た。貴婦人も這入って来て挨拶をした。
  私は智恵子の母時子と申します……
  この間は何とも……
  まことに……
 徳市は苦笑しながら礼を返した。謹んで花束を智恵子に捧げた。
 智恵子の眼は感謝に輝やいた。
 母子《おやこ》は茶や菓子を出して徳市をもてなした上、近いうちに智恵子が出演する歌劇の切符を二枚徳市に与えた。
 智恵子は意味あり気な眼付きをして云った。
  もう一枚の方は……
  どうぞ奥様に……
 徳市はハッと顔を撫でて苦笑した。
  ヤ……
  私は……
  まだ独身で……
 智恵子もハッと半巾《ハンケチ》で口を蔽いながらあやまった。
  マ……
  どうも失礼を……
 徳市は高らかに笑った。
 智恵子も極《き》まり悪げに笑った。
 時子が傍《かたわら》から取りなした。
  ではお友達にでも……
 徳市は急に真面目になって暇《いとま》を告げた。
 智恵子と時子は名残《なごり》を惜しんだ。
 徳市は二枚の切符を懐中にして逃げるように星野家を出た。

     ―― 11[#「11」は縦中横] ――

 徳市は星野家を出ると又行く先がなくなった。懐中には唯帝劇の切符が二枚ある切りであった。スッカリ悄気《しょげ》てとある横町を通りかかった。
 労働者の風をした男が徳市に近付いて肩に手をかけた。
 徳市は立ち止まってふり返ると、変装した浪越憲作を認めてハッとよろめいた。
 憲作はニヤリとして口に指を当てた。眼くばせをして先に立った。
 徳市はうなだれ[#「うなだれ」に傍点]てついて行った。
 二人はやがて丸の内の山勘横町《やまかんよこちょう》へ来た。事務所|様《よう》の扉を押して憲作はふり返った
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