、その上にビーズ入りのバッグを静かに載せた。そうして右手で襟元を繕《つくろ》いながら、左手で前裾をシッカリと掴むと、白足袋を横すじかいに閃《ひら》めかして、汽鑵車の前に飛び込もうとしたが、線路の横の砂利に躓《つまず》いて、バッタリと横向きに倒れた。その拍子に右手で軌条《レール》を掴んで起き上りかけたが、何故か又グッタリとなって、軌条《レール》のすぐ横の枕木の上に突伏した。そのまま白い両手を向うむきに投げ出して、肩を大きく波打たして、深いため息を一つしたように見えた。
 私はそれを石のように固くなったまま見とれていたように思う。身動きは愚か、瞬き一つ出来ないままに……と思う間もなく女の全身に、真黒な汽鑵車の投影《かげ》が、矢のように蔽いかかった。するとその投影《かげ》の中から、群青《ぐんじょう》と淡紅色《ときいろ》のパラソルが、人魂《ひとだま》か何ぞのようにフウーウと美しく浮き出して、二三間高さの空中を左手の方へ、フワリフワリと舞い上って行ったが、その方にチラリと眼を奪われた瞬間に、虚空を劈《つんざ》く非常汽笛と、大地を震撼する真黒い音響とが、私の一尺横を暴風《はやて》のように通過した。
 思わず耳と眼を塞《ふさ》いで立ち竦《すく》んでいた私は、その音響が通過すると直ぐに又、新聞記者の本能に立帰った。編上靴《あみあげぐつ》を宙に踊らせて、二十間ばかり向うに投げ出されている、屍体の傍へ駈けつけた。線路の左右の田の中から、訳のわからない叫び声があとからあとから起るのを聞き流しながら……。
 まだ生きているのと同様に温かい女の屍体を、仰向けに引っくり返して見ると、どんな風にして車輪にかかったものか、頭部に残っているのは片っ方の耳と綺麗な襟筋だけである。あとは髪毛《かみのけ》と血の和《あ》え物《もの》みたようになったのが、線路の一側《ひとかわ》を十間ばかりの間に、ダラダラと引き散らされて来ている。その途中の処々に鶏《にわとり》の肺臓みたようなものが、ギラギラと太陽の光を反射しているのは脳味噌であろうか。右の手首は、車輪に附着《くっつ》いて行ったものか見当らず、プッツリと切断された傷口から、鮮血がドクリドクリと迸《ほとば》しり出て、線路の横に茂り合った蓬《よもぎ》の葉を染めている。その他の足袋の底と着物の裾に、すこしばかり泥が附いているだけで、轢死体《れきしたい》としては珍らしく無疵《むきず》な肉体が、草の中にあおのけに寝て、左手《ゆんで》はまだシッカリと前裾を掴んでいた。
 私はチラリと汽車の方をふり返りながら、その左手を着物から引き離して検《あらた》めてみた。手の甲も、掌《てのひら》もチットも荒れていないようであるが、中指の頭にヨディムチンキが黒々と塗ってあるのに、そこいらが格別|腫《は》れても傷ついてもいないところを見ると、刺《とげ》か何かを抜いたあとを消毒したものであろう。して見ればこの女は看護婦かな……と思い思い手早く胸を掻き開いてみると、白く水々しく光る乳房と、黒い、紫がかった乳首があらわれたが、その上を、もう、一匹の大きな黒蟻が狼狽して駈けまわっていた。
 さては……と私は息を詰めた。すぐに安物らしい白地の博多帯をさぐってみると……どうだ……ムクリムクリ……ヒクリヒクリと蠢く胎動がわかるではないか……たしかに姙娠五箇月以上である。なお序《ついで》に、袂《たもと》と、帯の間を撫でまわしてみると、筥崎から佐賀までの赤切符の未改札が一枚と、小型の名刺に「早川ヨシ子」「時枝ヨシ子」と別々に印刷したのが十枚ばかりずつ白紙に包んだのが、帯の間から出て来た。
 その名刺をポケットに落し込みながら、私は取りあえず凱歌を揚げた。早川というのは九大医学部の寺山内科に居る、医学士の医員で、記者仲間に通った色魔に相違なかった。その背後には姉歯《あねば》なにがしという産科医がいて、何かしら糸を操っているという噂まで、小耳に挟んでいる。又、時枝ヨシ子というのは、これも同大学の眼科に居る有名な美人看護婦ではないか。……二人の関係は二三箇月前にチラリと聞いた事があるにはあったが、評判の美人と色魔だけに、いい加減に結び付けた噂だろう……なぞと余計なカン[#「カン」に傍点]を廻《ま》わしていたのが悪かった。もうここまで進んでいたのか……と思い思い今度は下駄を裏返してみると、まだ卸《おろ》し立てのホヤホヤで、福岡市|大浜竪町《おおはまたてちょう》金佐《かねさ》商店という商標《マーク》が貼ってあって、踵《かかと》の処に※[#「┐」の中に「サ」、屋号を示す記号、188−7]と刻印が打ち込んである。次にビーズ入りのバッグを開いてみると、新しいハンカチが二枚と、六円二十何銭入りの蟇口《がまぐち》と、すこしばかりの化粧道具を入れた底の方から、柳川ヨシエという名宛《なあて》
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