らしく、二人ともアンマリ欠伸《あくび》を噛み殺して来たためにスッカリ涙ぐんでしまっていた。令兄の杉山茂丸氏の如きは、そのズッと以前から後悔の臍《ほぞ》を噛んでいたらしい。警告の意味で、故意と声を立てて大きな欠伸《あくび》を連発していたが、それでも白浪を蹴って進む林技師の雄弁丸が、どうしてもSOSの長短波に感じないので、とうとう精も気魄《きはく》も尽き果てたらしく、ゴリゴリと巨大なイビキを掻き始めた。それを笑うまいとしている芸者連が、必死にハンカチで口を押えている始末……。
 しかし林技師の雄弁丸は物ともせずにグングンスチームを上げて行った。俄然《がぜん》として英領|加奈陀《カナダ》の缶詰業に火が移った。続いて露領沿海のタラバ蟹に延焼し、加察加《カムサッカ》の鮭、鰊《にしん》と宛然《さながら》に燎原《りょうげん》の火の如く、又は蘇国《ソヴェート》の空軍の如く、無辺際の青空に天翔《あまかけ》る形勢を示したが、その途端、何気なく差した湊屋の盃を受けて唇に当てたのが運の尽き、一瞬の中《うち》に全局面を、無学文盲の親友に泄《さら》われてしまった。
「フウム。これは感心した。日本中で鯨の事を本格に知っとる者《もん》なら私一人かと思っておったが、アンタもいくらか知っとるなあ」
「失敬な事を云うな仁三郎。林駒生はこれでも総督府の技師だ。事、水産に関する限り、知らんという事は只の一つも無いのが職分だぞ。そのために中佐相当官の待遇を……」
「ふむ。わかったわかった。それなら聴くがアンタは鯨の新婚旅行をば、見なさった事があるかいな」
「ナニ。鯨の新婚旅行……」
 芸妓《げいしゃ》連中が一斉に爆笑した。八代、武谷両聖人が今更のように眼をパチクリして湊屋の顔を凝視しているところへ、鼾《いびき》を掻き止めた令兄杉山茂丸氏がムクムクと起上って、赤い眼をコスリコスリ、
「ハハア。新婚旅行……誰が……」
 と云ったので今一度、爆笑が起った。
 林水産技師は憮然として投出した。
「……そんなものは……見ん……元来鯨は……」
「それ見なさい。知るまいが。イヤ。それは大椿事《おおごと》ですばい。鯨の新婚旅行チュータラ……」
 と仁三郎が間髪を容れず引取った。
「イヤ。トテモ大椿事《おおごと》ですばい。アンタ方は知りなさるまいが、鯨はアレで魚じゃない。獣類《けだもの》ですばい」
「ウム。それはソノ鯨は元来哺乳類……」
「まあ待ちなさい。それじゃけに鯨は人間と同じこと、三々九度でも新婚旅行でも何でもする。私ゃ大事な研究と思うたけに、実地について見物して来た。しかも生命《いのち》がけで……」
「アラ。まあ。アンタ見て来なさったと……」
「お前たちに見せてやりたかったなあ。その仲の良《え》え事というものは……お前たちは人間に生れながら新婚旅行なんてした事あ在《あ》るめえ」
「アラ。済まんなあ。新婚旅行なら毎晩の事じゃが」
「アハハ。措《お》きなはれ。阿呆《あほ》らしい」
「阿呆らしいどころじゃない。権兵衛が種蒔きなら俺でも踊るが、鯨のタネ蒔きバッカリは真似が出来ん。これも学問研究の一つと思うて、生命《いのち》がけで傍《にき》へ寄って見たが、その情愛の深いことというもんなア……あの通りのノッペラボーの姿しとるばってん、その色気のある事チュタラなあ。ちょっとこげな風に(以下仁三郎|懐手《ふところで》をして鯨の身振り)」
「アハハハハ……」「イヒヒヒ」
「オイ仁三郎……大概にせんかコラ……」
「海の上じゃけに構わん。牡も牝も涎《よだれ》を流いて……」
「アラッ。まあ。鯨が涎をば流すかいな……」
「流すにも何にもハンボン・エッキスちうて欝紺色《うこんいろ》のネバネバした涎をば多量《したたか》に流す」
「……まあ。イヤラシイ。呆れた」
「ハンボン・エキス……ハハア。リウマチの薬と違いますか」
 と武谷博士が大真面目で質問した。
「違います……そのハンボン・エキスの嗅《くさ》い事というたなら鼻毛が立枯れする位で、それを工合良うビール瓶に詰めて、長崎の仏蘭西《フランス》人に売りますと、一本一万円ぐらいに売れますなあ。つまり世界第一等の色気の深い香水の材料《たね》になります訳で、今の林君の話のスカン何とかチュウ処の鯨よりも日本の鯨の新婚旅行の涎の方が何層倍、濃厚《みご》いそうで……」
「オイオイ仁三郎……ヨタもいい加減にしろ」
 林技師がタマリかねて口を出した。
「ヨタでも座頭唄でもない。仏蘭西の香水は世界一じゃろうが」
「……そ……それはそうだが……」
「それ見なさい。それは秘密に鯨の涎をば使いよるげに世界一たい。自分の知らん事あ、何でも嘘言《ソラゴト》と思いなさんな」
「……フーム。何だか怪しいな」
「怪しいにも何も、私は、そのヨダレが欲しさに生命《いのち》がけでモートル船に乗って随《
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