いたかいなかったか、愛子には今まで一人の情夫らしいものも居ない。念のために今までのお客の中で、好いたらしい事を云い合った者は居ないか。チョット惚《ぼ》れでもいいから居ないかと聞いてみたが、愛子はただポカンとして頭を左右に振るばっかりだから、しまいにはこっちが負けてしまった。頭の悪い奴はコンナ場合全く苦手だよ。殊に女にはコンナ種類の返事をする者が多いから困るんだ。
実は愛子が惚れた男がチャント居たんだ。愛子はその男に、生れて始めての恋を感じているにはいたんだが、タッタ一晩、会ったキリだし、気の弱い女だもんだから自分でもチョット惚れのつもりでほかの苦労に紛れて、そのまんま忘れていたんだ。むろん其奴《そいつ》が犯人だったのだが……まあ……急《せ》かずと聞き給え。ここが面白いところなんだ。
そんな訳で事件当時の愛子には、これぞという心当りが全くなかったんだから手の附けようがない。そうかといって愛子の取ったお客を一々調べ上げて、足を洗ってみるというのはトテモ大変な仕事だし、第一、それほどの確かな見込を附けていた訳じゃないんだから、そのままこの方面の捜索を打切る事にした。
そうなると自然、捜索の方針が八方|塞《ふさ》がりになる訳だから、話が一番最初のところへ逆戻りして来る。つまり否《いや》が応でも兇器を発見して、その兇器から当りを付けて行かなければならない事になって来たが、その肝腎要《かんじんかなめ》の兇器が、事件発生以来どうしても見付からないのには弱らされたね。弱るも道理か……犯人はその兇器の文鎮をチャンと仕事場に持って帰って、ニッケル鍍金《めっき》を仕直して、毎日毎日製図の仕事に使っていたんだから、コレ位馬鹿馬鹿しい話はないんだが、こっちはソンナ事とは夢にも知らない絶体絶命だ。頼みの綱はコレ一つ……兇器さえ見付かればこっちのもの……東京市中を持ちまわって、一軒一軒|虱潰《しらみつぶ》しに出所を調べてまわっても構わない覚悟で、飯田町一帯の材木置場の隅から隅まで鋸屑《おがくず》を掻きまわしたもんだ。
笑い事じゃないんだよ。一口に迷宮事件というけれども、迷宮事件の裏面にはコンナ苦労がドレ位積み重なっているか知れないのだよ。しまいには九段下から大手あたりのお堀へかけての大捜索まで遣ってもらったが、古バケツ、底抜け薬鑵《やかん》、古下駄、破れ靴、犬猫や、傘《からかさ》の骨以外には何一つ引っかかって来ない。新聞にはその大捜索の状況を写真にまで出したが、吾々はただ、そうして笑われているような気がしたばっかりだった。
とうとう事件発生後、三個月目に完全な迷宮入り、捜索打切の宣告を聞いた時の残念さ、無念さ……それは絶対にお役目|気質《かたぎ》とか何とかいうもんじゃなかったよ。吾々仲間の根性とでもいおうか。事件の筋道が尻切《しりきり》トンボになって、有耶無耶《うやむや》になった不愉快さといったらないね。家《うち》へ帰っても二三日は飯が不味《まず》くて嬶《かかあ》を相手に癇癪《かんしゃく》ばかり起していたもんだが……むろん初めの騒ぎが大きかっただけに、警視庁が新聞からメチャメチャに野次り倒された事は云う迄もない。しかし事実は文字通りに「警視庁の無能」「犯人大成功」なんだからチューの音《ね》も出なかった訳だよ。
ところが、こうした徹底的な迷宮事件……手がかりのなくなった完全犯罪が、それから一年も経った後《のち》に、思いがけない愛子の非道《ひど》い近視眼のお蔭で目星が付いたんだから皮肉だろう。
不思議……そうだねえ。ちょっと聞くと、ずいぶん不思議な、神秘的な話に聞えるだろう。ところが事実は何でもない。何ともいえない人情に絡んだ憐れな話なんだ。
ちょうどそれから丸一年経った明治四十二年の、やはり四月の中頃の事だった。むろん次から次に起る事件に逐《お》われて、金兵衛殺しなんか忘れている時分だったが……。
雨はショボショボ降るし、事件も何もなし……というので、仲間と一緒に警視庁の溜りで雑談をしていると、給仕が面会人を取次いで来た。
「築地の友口愛子……大至急お眼に掛りたい……」
と云って小さな名刺を一枚渡した。
トタンにドキンとしたね。一年前の苦心をズラリと思い出しながら慌てて立上ったよ。コンナ場合に、コンナ調子でヒョッコリ面会を求めに来る事件の中の女は十中八九、何かしら重大な手がかりを持って来るものなんだ。
仲間に冷やかされながら例の面会室に来てみると、疑いもない愛子がチャント丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った野暮《やぼ》ったい奥様風で、椅子に腰をかけている。よほど心配な事があると見えて、顔色が真青に窶《やつ》れている。おまけに妙にオドオドした眼付でこっちを見る表情に、昔のような人なつこい愛くるしさがアトカタもないようだ。
占《し》めた……と思いながら何喰わぬ顔で話を聞いてみると、愛子は金兵衛に死別《しにわか》れてから、芸妓《げいしゃ》を廃業《やめ》て、義理の母親《おふくろ》と一緒に煙草屋専門で遣ってみた。すると近所の会社員や、工場の職人たちが盛んに買いに来てくれるので、結構やって行ける事がわかった。しかし一方に養母《おふくろ》が、芝居と、信心と、寝酒の道楽を初めて、死んだ金兵衛の伝でグングン臍繰《へそくり》をカスリ取る上に、良い縁談をみんな断ってしまうので、愛子は朝から晩まで店の稼ぎと所帯の苦労に逐《お》われて、この頃はスッカリ窶《やつ》れてしまった……というような話で……つまり愛子は生れてから死ぬまで絞り取られるように出来ていた女なんだね。……それから愛子はオズオズと一通の手紙を出して、これを読んでくれと云うんだ。
俺は何かの脅迫状じゃないかと思って半分失望しいしい、その手紙を開いてみたら大違いだった。便箋三枚に製図用の紫インキで綺麗に、細かく、ベタ一面に書いてあるんだ。参考品の中に保存してあるがね。見せてやろうか……ウン……こっちへ来てみたまえ。この手紙だ。
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「前文御めん下さい。僕は貴女《あなた》に感謝しなければなりません。昨日《きのう》偶然に僕と、貴女とあすこで二人|切《きり》になった事を、貴女は記憶しておられるでしょう。あの時、貴女の横に腰をかけていたのは警視庁の思想犯係の刑事だったのです。そう気付いた時に僕はモウ絶体絶命の立場にいる事を知りました。貴女の前の御主人の事を根掘り、葉掘り聞いた僕の顔を貴女は記憶しておられる筈でしたから。
そればかりでなく僕は、貴女が苦労に窶《やつ》れておられる姿を見てシミジミと自分の罪を思い知りました。すぐにも名乗ろうかと思いながら躊躇《ちゅうちょ》しておりましたが、その時に貴女は以前の通りの愛情の籠った眼でジイッと僕を見られただけで、そのまんま知らん顔をしておられました。貴女が僕に、どうかして無事に逃げてくれと云っておられる無言の気持がよくわかりました。
ああ。あの時の気持。僕の感謝の気持を、どうしたら貴女にお伝え出来ましょう。
貴女の前の御主人金兵衛は悪魔だったのです。貴女のそうした涙ぐましい純潔な心ばかりでなく、貴女の清浄な肉体、血液までも絞りつくそうとしている悪魔だったのです。ですから僕は、あの悪魔を懲《こ》らして貴女を救い出し、同時に僕の外国|行《ゆき》の旅費を作ろうと決心してしまったのです。それから一個月ばかりの間金兵衛を跟《つ》けまわして、とうとう完全なチャンスを掴んだのです。しかし外遊はしませんでした。金兵衛から奪ったお金は皆、党の運動資金に費《つか》ってしまいました。
僕は貴女の思想から見ればドンナに咀《のろ》われても足りない人間です。貴女の御主人の仇敵です。社会の公敵です。貴女の不運の原因を作った人間です。それを貴女は知らん顔をして見のがして下すったのです。
ああ。貴女はあの、タッタ一夜の純情を、一年後の今日までも僕に対して注いで下すったのです。僕を愛していて下すったのです。
僕は生れて初めて貴女によって人間の純情の貴さを知ったのです。唯物主義一点|張《ばり》の血も涙もない生涯を送ろうと思っていた僕の信念が、貴女のお蔭で根柢からグラ付き初めたのです。
僕はキチガイになりそうです。
僕はモウ二度と貴女にお眼にかからない処へ逃げて行きます。裏切者にならないために、貴女の純真な、切ない愛情をタッタ一つ抱いて、満腔《まんこう》の感謝を捧げて死んで行きたいために。
僕は裏切者となって、貴女と結婚して、貴女をエタイのわからない不幸な運命に陥れるに忍びません。
どうぞ幸福に幸福に暮して下さい。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]淋しい社会主義者より
[#ここから1字下げ]
友口愛子様
この手紙は直ぐに焼いて下さい。貴女の御親切に信頼します。
[#ここで字下げ終わり]
この手紙を読み終ると直ぐに、これは一刻も猶予ならんと思って立上りかけた……が……又思い直して腰を落付けた。この手紙を持って来た愛子の態度が、あんまり不思議なので……自分に好いている男を一人死刑にするような遣り方なのに……正直者の愛子がソンナ残酷な事をする筈はないと思ったので、念のために今一度訊問してみる気になった。社会主義者一流の計略じゃないかしらんという疑いも起ったからね。
「ふうむ。愛子さん……」
「ハイ……」
「あんたはこの手紙の主《ぬし》に心当りがあるのかね」
ビックリしたように眼をパチパチさせた愛子は丸髷を軽く左右に振った。
「いいえ。ちっとも存じません。何を書いてあるのか読めないものですから。字があんまり細かくて……」
俺は唖然となってしまった。
「ナアンダ。まだ読んでいないのかい」
愛子は丸髷に手を遣りながら淋しく笑った。
「ハイ。コンナような手紙が、よく男の方から参りますので、そのたんびに母親《おっかさん》に読んでもらっておりますが、この手紙の文句ばっかりは、わからないと母親《おっかさん》が云うもんですから……処々《ところどころ》拾い読みしてもらってもチンプンカンプンですから……ただ金兵衛さんの名前が所々《ところどころ》に書いてあって、社会主義者が死ぬっていうような事が書いてあるって云うもんですから、何だか怖くなりまして……ほかの方に読んで頂くのは剣呑《けんのん》だって母親《おっかさん》が云うもんですから、大急ぎで貴方に読んで頂きに……」
俺は思わず一|丈《じょう》ばかりの溜息を吐《つ》いたよ。滑稽な気持ちなんかミジンも感じなかったから不思議だよ。これ程の恐ろしい作用《はたらき》を現わした愛子の、何も知らないでオドオドしている近眼を暫くの間茫然と見詰めていたね。
「ふうむ。あんたはこの手紙で見ると、金兵衛さんが死ぬる一個月《ひとつき》ぐらい前に、どこかの待合で、若いお客と差しでシンミリした事があるんだね」
愛子の顔色が見る見る真青になった。この前に訊問した事をドウやら思い出したらしいんだ。それから又、忽ち耳の附け根まで赤くなったが俺の顔を見ながらオズオズと点頭《うなず》いたものだ。
「ね。あるだろう。思い出したろう」
愛子はいよいよ真赤になって俯向《うつむ》いてしまった。俺は胸をドキドキさせながら彼女に対して訊問の秘術を尽し初めたが、彼女は手もなく釣り込まれてポツポツ話し出した。
「ハイ。やっと思い出しました。それは二十七八の若旦那風の人でした。待合ではオオさんと云っておりましたが、お名前は大深さんと云いましたか……お召物からお金遣いまでサッパリした方で、いいえ。手は両方とも職工らしくない、白い綺麗な手でした。お酒が少しばかりまわりますと、親切に色々と妾《あたし》の身上《みのうえ》をお尋ねになりましたので、何もかも真個《ほんと》の事をスッカリ話しました。金兵衛さんの事までもスッカリ……毎月二十五日が本郷の無尽講《むじん》の寄合なので、帳面とお金を持って行かれる。その帰りに電車で妾《あたし》の所へ見える事まで話しました。その若い方は何でも、信州の或るお金持の御養子さんで、東京へ来て高等工業学校へ這入ったが、養家が破産した
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