思いながら何喰わぬ顔で話を聞いてみると、愛子は金兵衛に死別《しにわか》れてから、芸妓《げいしゃ》を廃業《やめ》て、義理の母親《おふくろ》と一緒に煙草屋専門で遣ってみた。すると近所の会社員や、工場の職人たちが盛んに買いに来てくれるので、結構やって行ける事がわかった。しかし一方に養母《おふくろ》が、芝居と、信心と、寝酒の道楽を初めて、死んだ金兵衛の伝でグングン臍繰《へそくり》をカスリ取る上に、良い縁談をみんな断ってしまうので、愛子は朝から晩まで店の稼ぎと所帯の苦労に逐《お》われて、この頃はスッカリ窶《やつ》れてしまった……というような話で……つまり愛子は生れてから死ぬまで絞り取られるように出来ていた女なんだね。……それから愛子はオズオズと一通の手紙を出して、これを読んでくれと云うんだ。
俺は何かの脅迫状じゃないかと思って半分失望しいしい、その手紙を開いてみたら大違いだった。便箋三枚に製図用の紫インキで綺麗に、細かく、ベタ一面に書いてあるんだ。参考品の中に保存してあるがね。見せてやろうか……ウン……こっちへ来てみたまえ。この手紙だ。
[#ここから1字下げ]
「前文御めん下さい。僕は貴女《あなた》に感謝しなければなりません。昨日《きのう》偶然に僕と、貴女とあすこで二人|切《きり》になった事を、貴女は記憶しておられるでしょう。あの時、貴女の横に腰をかけていたのは警視庁の思想犯係の刑事だったのです。そう気付いた時に僕はモウ絶体絶命の立場にいる事を知りました。貴女の前の御主人の事を根掘り、葉掘り聞いた僕の顔を貴女は記憶しておられる筈でしたから。
そればかりでなく僕は、貴女が苦労に窶《やつ》れておられる姿を見てシミジミと自分の罪を思い知りました。すぐにも名乗ろうかと思いながら躊躇《ちゅうちょ》しておりましたが、その時に貴女は以前の通りの愛情の籠った眼でジイッと僕を見られただけで、そのまんま知らん顔をしておられました。貴女が僕に、どうかして無事に逃げてくれと云っておられる無言の気持がよくわかりました。
ああ。あの時の気持。僕の感謝の気持を、どうしたら貴女にお伝え出来ましょう。
貴女の前の御主人金兵衛は悪魔だったのです。貴女のそうした涙ぐましい純潔な心ばかりでなく、貴女の清浄な肉体、血液までも絞りつくそうとしている悪魔だったのです。ですから僕は、あの悪魔を懲《こ》らして貴女を
前へ
次へ
全13ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング