車がどんな風に人の神経をゆすぶっているかということは、「東京の裡面」を作る「東京人のあたま」を理解する上に就いて、バラックと同様の価値があるのである。
全市が親知らず
東京市当局の言明を聞いて見ると、電車は目下が極度の増発で、この上|殖《ふ》やせば到る処の停留所に電車の行列が出来るばかり――否、現在でもその傾きがあって困るとの事。こうなると、あとは地下線と高架線よりほかに抜け道がないとは、一般の所謂識者の観察である。
何だか知らないが、こむ[#「こむ」に傍点]ことこむ[#「こむ」に傍点]こと。
「須田町は花の都の親知らず」
と云うが、今ではその親知らずが東京中に拡がって、とても女子供や老人と構ってはいられない。生存競争とか優勝劣敗とか、適者生存とかいう学問上の言葉を、一番手っ取り早く説明するのは電車の昇降であるが、それにしても東京のはあまり極端である。そのせいか、この頃出来た新しい車台は、車掌と運転手の居る処を交通遮断している。そうでもしなければ運転不能に陥るかも知れない。
そんならば空いた電車は一つも無いかというと、そうでもない。非常に混んでいる反対側の線は、大抵ガラ空きだから、いよいよ困る。
東京に来てから二週間ばかりの間に、停電と架線修繕のための停車を各二度と見たが、僅かの間に数町の間電車の行列が出来た。その行列のおしまいをのぞいて、際限が見えなかったことも一度あった。それは小川町でのことであった。
九月の二十八日か九日であったと思う。午後七時頃、小川町の交叉点の架線工事が、十五分間、三方の電車を喰い止めた。その間に電車から降りて歩き出した人で、往来は人の波を打った。電車が動き出してから、その人の波がどこまで続いているか見ていたら十二三町に及んだ。
電車を降りてあるき出す人の心理状態はいろいろであろうが、十五分位の停車で、しかも架線工事だから山は見えている。いくら降りても知れたもので、記者の見たところでは全車台の三分の一位にしか見えなかった。それで往来は博覧会の出盛りのようになるのだから、全く恐ろしい。これで電車が無かったら、東京の町はどんなになるだろうと思わせられる。
或る人の話に依ると、震災の時に約百万の人々が狂気のように東京を逃げ出した。そのゆりかえしが今やって来て、以前の東京の約一倍半位にはなっている。
その中には東京の復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京は一躍して新開地になった。新しい東京は今や新しい血と肉の力で復興さるべく飢えているのだ。行け行け……といったような気持ちで押し寄せた人々の大多数は、自動車や何かに乗らない。電車に乗るにきまっている。「だからこんなにこむのだ」と。成る程さもあろうかとうなずかれる。
序《ついで》に説明しておくが、この頃の電車には早朝の割引時間のほかに、急行時間というのが出来た。これは遠距離から往来する腰弁や労働者の便利を図るために出来たものらしく、朝は六時前後から三時間内外、午後は三時頃から四時間位、すべての電車が急行時間という札をかける。小さな停留場には一切止まらず一気に走って、重立《おもだ》った停留所や乗り換え場所だけ拾って行く。或る意味から見れば、東京がそれだけ広くなったとも云えよう。
震災後東京市内は、事務所といわず商店といわず、大抵はバラックで間に合わせて、主人を初め雇われ人は成るべく市外から通おうとする傾向がある。
一方に、遠からず市区改正があって、どこが取り潰されるかわからぬという考えがあるために、大層なシッカリした建築が出来ない代りに、矢鱈《やたら》に東京の町は横へ広がる事になる。そこへ郊外生活に対する憧憬《あこがれ》とか、又は経済上、精神上なぞのいろんな原因が手伝って、東京市外の最近の発展は驚くばかりである。二里三里の遠方から来る労働者は珍らしくなくなって来た。
こうして無暗《むやみ》にダダッ広くなった東京に、電車の急行が必要になったのは、当り前過ぎる位当り前の事である。
この頃ならば午前の六時半から九時半まで、午後は三時半から七時半まで、合計七時間というものが東京中の電車を急行にする。小さな停留場には止まらないから、市内でこまかい用事を足すことはなかなか困難である。今に東京がもっと広くなったら、今一つ急行電車専用の線路を作らねばならぬかも知れぬ。否、現在でもその必要があり過ぎる位あるのであるが、遺憾ながら今の東京の道幅では不可能である。結局、小さな停留場を廃して、朝から晩まで急行にせねば追付《おっつ》かぬようになりそうな傾向が見える。そうなったら、今の乗り合い自動車は勿論の事、人力車が幅を利かし始めるような奇現象を呈するかも知らぬ。否、現在でも急行時間には
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