けと身体《からだ》の極《きま》り工合を今一度見に出かけたと後《のち》になって僕に話しておりましたが、しかし、そのお手本の正体が錦絵だったか押絵だったか。又、それがどこに在ったものやら、そんな事は一度も話したことがありませんので、僕も今だに不思議に思っております。
それに皆様も御承知か存じませぬが、父はよく女に化けて旅行する癖がありましたそうで、ジミな十徳を着て、お高祖頭巾《こそずきん》を冠って、養生《ようじょう》眼鏡をかけますとチョットしたお金持ちの後家《ごけ》さん位に見えましたそうで、興行中でも何か気に入らぬ事がありますと、そんな風にして姿を隠して、太夫元《たゆうもと》が困っているのをすぐ傍から見ていて面白がったりしたそうです。ですからその時の旅行もキットそんな姿で汽車に乗って行ったのでしょう。父の姿を見かけたものは一人もなかったので、この衣裳のお手本の正体ばかりは、とうとうどこにあるのかわからず仕舞《じま》いになってしまいました。
そのうちに、その春興行の前後から父は眼に見えて健康を損ねて来ましたので、仕立屋なぞは衣裳の祟《たた》りだなぞと蔭口を云っていたそうですが、もともとひよわな体質なのに無理な旅行なぞをしたせいでしょう。そんな秘密の旅行もフッツリと止めてしまいまして、舞台に立つ時のほかは静養ばかりしながらやっと昨年の春まで持ちこたえて来たのです。
一方に僕もまた親ゆずりの病身者で、おまけに早くから母に別れた牛乳育ちの弱虫だったもんですから、父から伝えられました事は大抵|口伝《くでん》ばかりと云っていいのでした。本当の仕込みは伯父さん(芝猿丈《しえんじょう》)と築地《つきじ》のお師匠さん(藤田勘十郎氏)のお蔭なのですが、それとても、身体《からだ》が弱いために本当の勉強が出来ておりませんので、トテモお恥かしい訳なのです。
そんなところへ今度のお芝居は父の追善のためというので、皆様の一方ならぬお引立てを受けまして、舞台に立たせて頂きますばかりか、夢にも思いがけなかった大役の御注文が出ておりますことを、まだ熱が出て寝ておりました僕の枕元に伯父が駈けつけて来て知らせてくれました時はスッカリ胆《きも》を潰《つぶ》してしまいました。初めのうちは、いつもの伯父の癖で、僕をカラカッているのだとばかり思って、いい加減な返事をしながら笑っておりましたが、そのうちに八丁堀の大旦那様(大沼氏)や平川町の先生(紫紅《しこう》氏)方がお見えになって、いよいよ本当だとわかりますと僕は思わず手放しで泣き出してしまいました。そうしてこのお芝居が済んだら、あとはどうなっても構わないつもりで稽古を初めたのですが、都合のいい事に父も僕も心もちヒョロ長い方で肩幅から何からよく合っていますので、衣裳の方はあまり手を入れずに済みました。
しかし何しろこの扮装《こしらえ》は総体で十三貫目もありましてシャグマだけでも一貫目近くあります。それをまだ芸も身体もコンマ以下の弱虫が着るのですから、平生《ふだん》だと立ち上るだけでも大変なのですが、それでも生命《いのち》がけの女の気もちになって舞台に出てみますと、不思議なくらい楽に動けますので、これは大方亡くなりました父の霊が衣裳に乗り移って軽くしてくれるのだろうと思っております。云々《うんぬん》。
私はこの時、この記事の上に突伏しまして、どんなにか泣きましたことでしょう。
私のお母様の押絵を御覧になった貴方様のお父様が、それほどまでに牡丹と蝶々の着付けを大切にかけてお用いになりました、そのお心のウラをお察ししました時に、私はもう立っても居てもいられぬようになりました。
中村半次郎様と私とは、お話にきいた事のある夫婦児《めおとご》だったに違いない。一人はお母様に似て、一人はお父様に似た双生児《ふたご》だったに違いない。そうしてお母様は私達二人をお生みになると間もなく、お父様に知れないように男の子の方を本当のお父様の処へお遣りになったので、そんな事を何もかも引き受けてお手伝いしたのは、あのオセキ婆さんだったに違いない。そうと考えるよりほかに考えようがないのをどうしましょう。
「ああ。中村珊玉様……あなたはそれほどまでに私のお母様を……そうして又私のお母様も……」
と叫びかけて私はハッとしながら、自分の手で自分の口を押えました。
今から考えますと私はどうしてこの時に発狂しなかったのでしょうと不思議に思われる位で御座います。
いいえ。私はそれから後《のち》暫くの間、発狂していたのかも知れませぬ。その夜《よ》遅くに岡沢先生のところのお湯殿で、もう二度と見ない決心をしておりました鏡の前に丸一年ぶりに坐りまして、その中に坐っておられるお母様の顔を見つめながらいつまでもいつまでも涙を流しておりました私の姿を、もしお兄様が御覧になりましたならば、きっと気が変になったものとお思いになったでしょう。
お兄様……ああ……おなつかしいお兄さま……。そう申し上げてはわるいのかも知れませぬけれども、どうぞおゆるし下さいませ。私はその夜《よ》から貴方様を私のタッタ一人のお兄さまときめてしまっていたのですから。そうしてもしホントのお兄さまでおいでにならないのでしたら、そのホントのお兄さまよりももっともっとおなつかしい大切の大切の秘密のお兄様と思って恋い焦れながら死んで行きたいと、そればかりを神様にお願いするようになりましたのは、その夜《よ》からの事で御座いましたから……。
そのあくる朝になりますと、私は熱が出ましたようで、時々クラクラとたおれそうになりましたが、一生けんめいに我慢をしまして、思い切り白くお化粧をして顔色の悪いのを隠してしまいました。
それを奥様が御覧になって、
「マア。トシ子さんたら。何て慌て方でしょう」
とお笑いになりながら髪結《かみゆ》いさんを呼んで来て下すったのですが、その時に私は「生れて初めて他人に髪を結ってもらうのだ」と思い思い鏡と向い合ってはおりましたが、心の中は睡《ねむ》ってばかりおりましたようで、気が付いた時にはもうスッカリ高島田に結い上げてありましたのを見て思わず「アラッ」と云って髪結いさんに笑われました。
それから故郷を出ますときに柴忠さんのお嬢さまから頂いた一張羅《いっちょうら》の着物と着かえまして、先生御夫婦のお伴をして上野から鉄道馬車に乗りましたが、久し振りに厚ぼったい帯をシッカリと締めましたので気がシャンとしましたためか、それともまだ外はつめたい風が吹いておりましたせいか、馬車に乗っております間は居眠りをしなかったようで御座います。けれども歌舞伎座へ這入って平土間に坐りますと間もなく、人イキレであたたかくなりましたせいか、又もウットリとなりまして、お芝居通の先生や奥様が色々と説明して下さるのを、夢うつつに聞いているばかりで御座いました。
お兄様が阿古屋に扮《ふん》して出てお出でになりましても、同じように睡くて睡くてボンヤリしておりましたようで、それを我慢しいしい眼を瞠《みは》っておりました苦しさを、今だにシミジミとおぼえております。あとでのお話によりますと、お兄様もその日はお加減がわるかったのを、無理におつとめになりましたのだそうで、その悩ましいお姿が、琴責めの時にたいそうよくうつったとの事でしたが、私はただ、その白いお下着の襟に刺してありました銀糸《ぎんし》の波形の光りを不思議なくらいハッキリとおぼえておりますだけで、そのほかは白いお顔と、赤いお召物とが、ボーッとした水彩画のように眼に残っておりますばかり……筋なぞは一つもわからないままで御座いました。そうして、家に帰りましてから、
「面白かったか」
と先生に聞かれましても、何一つお答えが出来なかった時の恥かしう御座いましたこと……。
それでも私は、とうとう自分の病気を隠しおおせました。
この胸の疵《きず》を、お医者様に見られる位なら死んだ方がいい。……イイエ。私はこの病気がだんだん非道《ひど》くなって死ぬ時が近づいて来るのを待ちましょう。そうしてあの世で待っておいでになるお母様の処へ行って、思い切り抱きついて泣きましょう。ほかの事はみんな違っていても私のお母様だけは私の本当のお母様に違いないのだから……と、そんな風に思い込みまして、ともすれば熱のために夢のような心地になりかけますのを、唇が痛くなるほど噛みしめて我慢しいしいそのあくる日も、その又あくる日も無理やりに学校へ行ったので御座いましたが、そのうちにいつからともなく不思議と病気が癒《なお》ってしまったので御座います。これはおおかたお兄様に是非とも一度お目にかからなければなりませぬ運命を、私が持っておりましたせいでしょうと思いますけれども……。
けれども、その時の私は何故この病気も癒ったのだろうと、つくづく天道様《てんとうさま》を怨《うら》んだことで御座いました。
それから後《のち》の私は「不義者の子」という大きな札をホントに間違いなくピッタリと貼りつけられたように思って仕舞ったので御座います。日の目を見ることさえも恥かしく思いながらその日その日を送っていたので御座います。
「ああお母様。あなたは私を助けたいばっかりに、あんな嘘を仰言った」
とそう思いながら涙にくれた事が幾度ありましたでしょう。中村とか、菱田とかいう文字を見かけますたんびに、私の弱い心はどんなにかハラハラと波打ちましたことでしょう。ほんとに失礼この上もない事ですけど、そのような文字が眼に這入りますたんびに私はすぐに「不義」という文字を思い出すので御座いました。時折りは、いつかしらず歌舞伎座の方を向いて歩いておりますのに心付きまして、何となく気が咎《とが》めますままにフイとほかの町すじへ外《そ》れて行きました。その気恥かしう御座いましたこと……。
けれども、そのうちに暑中休暇が参りますと私は又、思いも寄りませぬことで、このような悲しい、浅ましい悩みから救われるようになりました。それはずっと前から岡沢先生の御書斎に置いてありました昔の八犬伝の御本を、何気なく引き出して開いて見てからの事で御座います。
私はそれこそホントに何の気なしで御座いました。ただ、永い日のつれづれに二階の窓からお隣りの屋根を見ておりますうちにフト、芳流閣の押絵を思い出しまして、信乃と現八は何故あの高い屋根の上で闘わなければならぬのでしょうとチョット不思議に思いましたので、その絵の描いてある処を探し出して前へ前へと読み返して行きますうちに、いつの間にか、その話のおもしろさに釣り込まれてしまいました。そうして、しらずしらずのうちに一番初めに立ち帰りまして、八犬伝の全体の女主人公になっておられる伏姫《ふせひめ》様が夫と立てておられる八《や》つ房《ふさ》という犬に身を触れずにみごもられた……というお話の処まで読んでしまいました。
そのお話につきましては作者の曲亭馬琴という方が昔からのいろいろな例を引いて、さもさも本当らしく書いておられるのでしたが、それを読みました時の私の驚きは、まあどんなで御座いましたでしょう。申すまでもなくその時まで私自身には、そのような事について何の知識も持たなかったので御座いましたが、それでもこの世にはキットそんな事があり得るに違いないという事をその時にどんなにか固く信じましたことでしょう。お母様のお言葉の秘密を解く鍵は、このお話のほかにないと思いまして、どんなにか夢中になって喜びました事でしょう。そうして、なおも先の方を読んで参りますと、その八つ房という犬の思い子となって生れた八犬士の身体《からだ》には、その父の犬の身体についていた八ツの斑紋が一ツずつ大きなほくろ[#「ほくろ」に傍点]となってあらわれて、親子のしるしとなっていたという事まで詳しく書いてあるでは御座いませんか。
それは私にとりまして、それこそ眼も眩《くら》むほどの奇蹟的な喜びで御座いました。われと胸をシッカリと抱きしめて、時々は涙を流してまで溜め息をしいしい読み続けたことでした。
――男と女とが、お互いに思い合っただけで
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