れている訳ではありませんからね。普通人のようにシッカリした足取りで、普通人以上に巧妙な智慧を使って、複雑深刻を極めた犯罪を遂行《すいこう》する事があると、記録にも残っているくらいですが正《まさ》にその通りです。貴方は、貴方特有の強健な趾《あしゆび》と、アキレス腱の跳躍力を利用して、この事件を遂行されたに違い無いのです。あなた独得の明敏な頭脳と、スバラシク強健な足の跳躍力とを一緒にして、この惨劇を計画されたに相違無いのです。あなたは標本室の薬液を盗んで、四人の女を眠らせて、この兇行を遂げられたのです。そうして夫人の懐中《かみいれ》を奪って、この室《へや》に帰って、その懐中《かみいれ》を寝床の下に隠してから、知らぬ顔をして便所に行かれたのでしょう。そこで血痕を残らず洗い浄めた後《のち》に、初めて安心して眠られたのでしょう」
 私は又も、肋骨《あばらぼね》が疼《うず》き出す程の、烈しい動悸に囚われてしまった。今の今まで他人の事のように思って耳を傾けていた事件の説明が、急角度に私の方に折れ曲って来たので……そうして身動きも出来ない理詰《りづめ》の十字架に、ヒシヒシと私を縛り付け初めたので……。
「……貴方は最早《もう》、それで十分に犯罪の痕跡を堙滅《いんめつ》したと思っていられるかも知れませんが……しかし……もし……万が一にも私が、あの標本室に残された、貴方の重大な過失を発《あば》き立てたらドウでしょう。あなたが持って行かれた、あの小さな瓶のあとに残っている薄いホコリの輪と、クロロホルムの瓶の肩に、不用意に残された仔指《こゆび》らしい指紋の断片とを、司法当局の前に提出したらどうでしょう。……さもなくとも直接事件の調査に立ち会った宿直の宮原君が、警官から当病院内の麻酔薬の取扱方について質問された時に「それは平生《いつも》、標本室の中に厳重に保管してある。しかもその標本室の鍵は、この通り、宿直に当ったものが肌身離さず持っているのだから、盗み出される気遣《きづかい》は絶対に無い」と答えていなかったらどうでしょう。そればかりでなく、その後で、警官たちが他の調査に気を取られている隙《すき》に、宮原君が念のため先廻りをして、標本室の扉《ドア》に鍵が、掛かっているかどうかを確かめていなかったとしたら、どうでしょう。……あすこから麻酔薬を盗み出したものが確かにいる。……その人間の仔指《こゆ
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