出ました千七百八十年の夏でしたか秋でしたかに、詩聖のシルレルが、その第一版を買って読んでいる中《うち》に、
「コンナ下らない詩集なんかモウ読んでやらないぞ」
 てんで地面《じびた》にタタキ付けた。それから又拾い上げて先の方を読んで行くうちに、今度は三拝九拝して涙を流しながら、
「ゲーテ様。あなたは詩の神様です。私は貴方のおみ足の泥を嘗《な》めるにも足りない哀れな者です」
 とか何とか云ってオデコの上に詩集を押付けたってえ話が残っている。それがこの本に違いない。独逸人に持たせたら十万マークでも手放さないだろうテンデ、アトから中江先生が説明して下さいましたがね。お人が悪うがすよ中江先生は……ハハハ。もっとも私《あっし》もこの本は東京へ持って行けあ汽車賃ぐらいの事じゃなさそうだ……ぐらいの事はカン付いていましたがね。慾をかわいたって仕様が御座んせん。
 ヘエヘエ。今度ソンナのが出ましたらイの一番に先生の処へ持ってまいります。大学の○○科で……ヘエ。助教授室……ヘエヘエ。何卒《どうぞ》よろしく御願い致します。
 ヘエヘエ。法文科の中江先生ですか。よく手前どもの処へお見えになりますよ。古い本をお探しになるのが何よりのお楽しみだそうですね。いいお道楽ですよマッタク……古本屋《しょうばいにん》てものは元来、眼の見えない者が多いんだが、お前は割合によくわかるから、話相手になると仰言《おっしゃ》ってね……ヘヘヘ。手前味噌で恐れ入ります。いつも御指導を願っております。
 御覧の通り手前共では、学生さんが御相手でげすから、横文字の書物なら全部、大きく原書と書いた貼札をして同じ棚に並べておきますので……ところがこの間ウッカリ、
 CHOHMEY KAMO'S HOJOKY
 って書いた奴を、何だかよく判らないでパラパラッと見たまんまに原書って書いた札をデカデカと貼って二円の符牒を付けておきましたら、中江先生がソイツを棚の中から引っこ抜いてお出でになって、私の鼻の先に突付けて、お叱りになったものです。
「しっかりしてくれなくちゃ困る」
 てえ御立腹なんで……成る程、よく読んでみますと鴨の長明の方丈記の英訳なんで。ハッハッハッ。ドッチが原書なんだか訳《わけ》がわかりませんや。まったく恐れ入りましたよ。方丈記の英訳の中でも一番古いものだからと仰言って二十円で買って頂きましたよ。ゲーテの詩集の埋合わせをして頂いたようなもので。ヘヘヘヘヘ……。
 まったくで御座いますよ。そのまま二円で買って行かれたって文句は御座いません。中江先生みたいなお方ばっかりだったら、苦労は御座んせんが、タチの悪いお客もずいぶん御座いますよ。ソレア……一冊丸ごと立読みなんて図々しいのはショッチュウの事なんで、その又読み方の早いのには驚きますよ。店の本の上に腰をかけて、足の下を吸殻《すいがら》だらけにしいしい一冊読んじゃってから、私の処へ持って来て、
「オイ君。この本一円きり負からないのかい。大して面白い本でもないぜ」
 なんて顔負けしちゃいます。大きなお世話でサア……文科の生徒さんなんかは、試験前にチョイチョイ来て、アノ棚の上の大きなウエブスターの辞書だの大英百科全書《エンサイクロペデア》を抱え下して、入り用な字を引いちゃってから、そのまま置きっ放しぐらいは構いませんが、ノートに控えるのが面倒臭いんでしょう。その一頁をソッと破って持って行くんですから非道《ひど》うがすよ。よく聞いてみると大学校には修身てえ学科が無《ね》えんだそうで……呆れて物が云えませんや。
 もっと非道いのがありますよ。丸ごと本を持って行ってしまうんです。つまり万引ですね。しかもその万引の手段てえのが、トリック付きなんですから感心しちゃいまさあ。
 自分で一冊か二冊、つまらない別の本を裸で抱えて、如何にも有閑学生か、有閑インテリらしい気分と面構《つらがま》えで飄然と往来から這入って来るんですね。最初から狙っている本はチャントきまっているんですが、直ぐにその本の処へ行くようなヘマは決してやりません。そこが手なんだろうと思うんですが、依然として風来坊を気取りながらアチコチと棚を見上げ見下げして行く中《うち》に、如何にも自然に狙った本へ近付いて行く。そこで不承不承のイヤイヤながらの事の序《ついで》だといった恰好《かっこう》で、その本の包装を引抜いて、気永く内容を読んでいるふりをしているんです。そうなるとこっちだってデパートの刑事さんじゃなし、最初から疑っているんじゃありませんから、ツイ眼を外《そ》らしてしまいますと、そこを狙っているんですね。つまらなさそうな顔をしてその本を棚に返す……と思ったら大間違いの豈《あに》計《はか》らんやでげす。返すと見えたのは包装のボール箱だけ……又は用意して来た、ほかの下らない本を詰めたりして
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