吾輩が彼奴の見込み通りに斎藤先生を殺して、その後釜《あとがま》に座って、コンナ実験をこころみて失敗をして自殺を思い立った人間とするかね。その吾輩がどこからか耳を澄ましている前で、だんだんと吾輩がそんな大悪人と認められて来るように……そうして君自身が、その吾輩の当の怨敵である呉一郎自身と認められて来るように、合理的に話が進められて行く。同時に、その吾輩の生涯を賭《と》した事業の功績が、スウーッと奪い去られて行くのを、手も足も出ないまま見たり聞いたりしていなければならない状態に陥って行くとしたら、吾輩にとってコレ以上の拷問があり得るかドウか考えてみるがいい。そのまま黙って自殺するか、飛び出して来て白状するか、二つに一つの道しかないだろうじゃないか……彼奴、若林の遣り口は早い話がザットこんな塩梅《あんばい》式だから堪らないのだ。ドンナ難事件でも一旦彼奴の手にかけるとなると、キットどこからか犯人をヒネリ出して来る。そのために彼奴が『迷宮破り』なぞと新聞に唄われている事実の裏面には、こうした消息が潜《ひそ》んでいるんだよ」
「……………」
「ところがだ。ところが今度という今度ばかりはそう行かないらしいんだ。今朝から連続的にこころみて来た彼奴の実験が、一々見込み外れになってしまって、君自身に何等の反応を現わさなかったばかりでなく、彼奴お得意の訊問法のトリックが、コンナ風にテッペンから尻を割っているところを見ると、そんなに恐怖《おっかな》がる程の事もないようだね。……流石《さすが》の古今無双の法医学者先生も、相手が吾輩というので緊張し過ぎたせいか、今朝から少々慌てて御座るようだ。或はこれこそ先生の『空前絶後の失敗』かも知れないがね。ハッハッ……」
「でも……でも……でも……」
「まだ『でも』が残っているのかい……何だい……その『でも』は……」
「……でも……その実験は先生がなさるのが当り前……」
「そうさ。無論、君の過去を思い出させる実験は吾輩がやるのが当然さ。だから彼奴《きゃつ》はこんなトリックを用いて、この実験の結果を独り占めにしようとしたんだ……彼奴は出来る限り吾輩を見殺しにしようとしたんだよ」
「エッ……ソ……そんな無茶な事が……」
「チャント実行されているから面白いだろう。第一吾輩が、その手を喰わずに、こうやって生き長らえて、ここへ出て来て喋舌《しゃべ》っているのが何よりの証拠じゃないか」
 こう云い終ると正木博士は、如何にも憎々しい、皮肉を極めた冷笑を浮めた。回転椅子の上に反《そ》りかえって傲然《ごうぜん》と腕を組んだ。葉巻の煙を高々と吹き上げつつ嘯《うそぶ》いた。恰《あたか》も若林博士が、どこからか耳を澄まして聞いているのをチャント予期しているかのように……。
 それを見ると私の心臓は又も、新しい恐怖に打たれて、一たまりもなく縮み上がってしまったのであった。……何という物凄い両博士の闘いであろう。何という深刻執拗な智慧比べであろう。今の今まで、そんな恐ろしい闘争の間に自分自身が挟まれている事を夢にも知らなかった私は……今の今まで見て来た苦しさや、せつなさ、恐ろしさや物狂おしさなぞが、みんなこの二人の博士の悪魔のようなトリックの引っかけ合いに引っかけられて、引きずりまわされて来たせいである事を、初めて気が付いた私は……もう悲鳴をあげて逃げ出したいような衝動に満ち充《み》たされてしまったのであった。今にも立ち上りそうに腰を浮かしかけたのであった。……が……。
 ……しかしこの時の私は、どうしたわけか一寸も椅子から離れる事が出来なかった。額にニジミ出る汗をハンカチで拭いつつ、又も腰を落ちつけてため息した。そうして、正木博士の顔を一心に凝視しつつ、その黒ずんだ、気味のわるい唇が動き出すのを、生命《いのち》がけの気持ちで待っていなければならぬような心理状態に陥ってしまったのであった。……それは恐らく、この二人の博士が、全力というよりも寧《むし》ろ死力を竭《つく》して奪い合っているほどの怪奇を極めた精神科学の実験そのものの魅力のために私の魂がもう、スッカリ吸い付けられてしまっていたせいかも知れない……その話の底を流るる形容の出来ない不可思議な真実性が、グッと私の心臓を引っ掴んで、云い知れぬ好奇心の血を波打たせているせいかも知れない。……なぞと……そんな事を考えつつ茫然として、眼の前の空間を凝視している私の耳元に、又も咳一咳《がいいちがい》した正木博士の声が、新しく、活《い》き活きと響いて来た。

「ハハハハハハ……どうだい。もうわかったかい、錯覚の原因が……ウン。わかった。……併《しか》しまだ少々解らないところが在るだろう。ウン。在る……なかなか頭がいいね。……第一そこに居る君自身が、どこの何という青年で、如何なる因果因縁でもってこの事件
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