どこで自分の物になって来たのか。そんなに夥《おびただ》しい、限りもないであろう、過去の記憶を、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまったのか……。
 ……そんな事を考えまわしながら眼を閉じて、自分の頭の中の空洞《がらんどう》をジッと凝視していると、私の霊魂《たましい》は、いつの間にか小さく小さく縮こまって来て、無限の空虚の中を、当てもなくさまよいまわる微生物《アトム》のように思われて来る。……淋しい……つまらない……悲しい気持ちになって……眼の中が何となく熱くなって……。
 ……ヒヤリ……としたものが、私の首筋に触れた。それは、いつの間にか頭を刈ってしまった理髪師が、私の襟筋《えりすじ》を剃《そ》るべくシャボンの泡を塗《なす》り付けたのであった。
 私はガックリと項垂《うなだ》れた。
 ……けれども……又考えてみると私は、その一箇月以前にも今一度、若林博士からこの頭を復旧された事があるわけである。それならば私は、その一箇月以前にも、今朝みたような恐ろしい経験をした事があるのかも知れない。しかも博士の口ぶりによると、博士が私の頭の復旧を命じたのは、この理髪師ばかりではないようにも思える。もしそうとすれば私は、その前にも、その又以前にも……何遍も何遍もこんな事を繰返した事があるのかも知れないので、とどの詰《つま》り私は、そんな事ばかりを繰返し繰返し演《や》っている、つまらない夢遊病患者みたような者ではあるまいか……とも考えられる。
 若林博士は又、そんな試験ばかりをやっている冷酷無情な科学者なのではあるまいか?……否。今朝から今まで引き続いて私の周囲《まわり》に起って来た事柄も、みんな私という夢遊病患者の幻覚に過ぎないのではあるまいか?……私は現在、ここで、こうして、頭をハイカラに刈られて、モミアゲから眉の上下を手入れしてもらっているような夢を見ているので、ホントウの私は……私の肉体はここに居るのではない。どこか非常に違った、飛んでもない処で、飛んでもない夢中遊行を……。
 ……私はそう考える中《うち》にハッとして椅子から飛び上った。……白いキレを頸に巻き付けたまま、一直線に駈け出した……と思ったが、それは違っていた。……不意に大変な騒ぎが頭の上で初まって、眼も口も開けられなくなったので、思わず浮かしかけた尻を椅子の中に落ち付けて、首をギュッと縮めてしまったのであった。
 それは二個《ふたつ》の丸い櫛《くし》が、私の頭の上に並んで、息も吐《つ》かれぬ程メチャクチャに駈けまわり初めたからであった……が……その気持ちのよかったこと……自分がキチガイだか、誰がキチガイだか、一寸《ちょっと》の間《ま》にわからなくなってしまった。……嬉しいも、悲しいも、恐ろしいも、口惜しいも、過去も、現在も、宇宙万象も何もかもから切り離された亡者《もうじゃ》みたようになって、グッタリと椅子に凭《も》たれ込んで底も涯《はて》しもないムズ痒《がゆ》さを、ドン底まで掻き廻わされる快感を、全身の毛穴の一ツ一ツから、骨の髄まで滲み透るほど感銘させられた。……もうこうなっては仕方がない。何だかわからないが、これから若林博士の命令に絶対服従をしよう。前途《さき》はどうなっても構わない……というような、一切合財をスッカリ諦らめ切ったような、ガッカリした気持ちになってしまった。
「コチラへお出《い》でなさい」
 という若い女の声が、すぐ耳の傍でしたので、ビックリして眼を開くと、いつの間にか二人の看護婦が這入《はい》って来て、私の両手を左右から、罪人か何ぞのようにシッカリと捉えていた。首の周囲《まわり》の白い布切《きれ》は、私の気づかぬうちに理髪師が取外《とりはず》して、扉の外で威勢よくハタイていた。
 その時に何やら赤い表紙の洋書に読み耽っていた若林博士は、パッタリと頁《ページ》を伏せて立ち上った。長大な顔を一層長くして「ゴホンゴホン」と咳《せき》をしつつ「どうぞあちらへ」という風に扉の方へ両手を動かした。
 顔一面の髪の毛とフケの中から、辛《かろう》じて眼を開いた私は、看護婦に両手を引かれたまま、冷めたい敷石を素足で踏みつつ、生れて初めて……?……扉の外へ出た。
 若林博士は扉の外まで見送って来たが、途中でどこかへ行ってしまったようであった。

 扉の外は広い人造石の廊下で、私の部屋の扉と同じ色恰好をした扉が、左右に五つ宛《ずつ》、向い合って並んでいる。その廊下の突当りの薄暗い壁の凹《くぼ》みの中に、やはり私の部屋の窓と同じような鉄格子と鉄網《かなあみ》で厳重に包まれた、人間の背丈ぐらいの柱時計が掛かっているが、多分これが、今朝早くの真夜中に……ブウンンンと唸《うな》って、私の眼を醒まさした時計であろう。どこから手を入れて螺旋《ねじ》をかけるのか解らないが、旧式な唐草模
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