らだ》の具合がわるかったせいか、汽車にヒドク酔いまして、あの石炭の煙のにおいが大嫌いになってしまいましたのに、こっちへ来ますと、そこら中が炭坑だらけで、朝から晩までそんな臭いばかりするからだろうと思います。けれども、母が折角いい処だと云って喜んでおりましたから、仕方なしに我慢しておりました。そうするとそのうちに慣れてしまって、汽車にも酔わなくなりましたけれども、空気の悪いのと、石炭の臭いだけはシンから嫌でした。それから学校に這入りますと、生徒の言葉が色々になっていて乱暴でわからないので困りました。日本中から集まった人の子供がいるんですから……。
――それに又、僕は小さい時から方々を引越していたせいか、友達が些《すくな》いのです。こっちへ来ましても学校友達はあまり出来ませんでしたが、その中《うち》に中学の四年になりますと、すぐに一所懸命の思いをして、福岡の六本松の高等学校へ這入りましたら、空気がトテモ綺麗で見晴しが素敵なので嬉しくて嬉しくて堪《たま》りませんでした……エエ……そんなに早く試験を受けましたのは直方《のうがた》が嫌いだったからでもありますけど、ホントの事を云いますと、早く大学が卒業したかったんです。そうして母と約束していた父の話を出来るだけ早く聞いてみたいような気持がして仕様がなかったのです……母にはそんな事は云いませんでしたけれども……中学へ入る時もそうだったのです。何故っていうわけはありませんでしたけども……そうしてやっと文科の二年になったばかしのところです(赤面、暗涙)。
――ですけど不思議なことに、母は試験が出来ても、あまり嬉しそうな顔をしませんでした。これはずっと前からそうでしたけど、母は僕が勉強をして成績がよくなるのは何とも云いませんでしたが、成績が貼出されたり、僕の名前が新聞や雑誌に載ったりするのは心《しん》から嫌《きらい》だったらしいのです。僕もそんな事は好きませんでしたので、学校の規則で成績品を出さなければならない時には、母がわざわざ僕を連れて「なるたけ隅っこの人眼につかない処へ出して下さい」と先生の処へ頼みに行った事もある位です。先生の方では「なかなか奥床《おくゆか》しい方だ」なぞ云って母を賞めていましたけれども、母の方は奥床しいどころでなく真剣に嫌がっていたようでした。高等学校へ這入る時も、僕の名前が福岡の新聞に出るのを無暗《むやみ》に心配しているようでしたので「そんなら東北かどこか遠方のつまらない私立の専門学校か何かを受ける事にして、そこへ僕と一緒に、引越したらどうです。そうすれば福岡の新聞には出ないかも知れませんよ」と云いましたら、暫く考えてから「お前はどうしても大学へ入れなければならないし、これだけの塾生を見捨てるのも惜しいから」と云って、とうとう福岡を受ける事に決めました。けども、それでも「福岡には不良少年や不良少女がタントいるから、無暗に寄宿舎から出てはいけない」とか「途中で知らない人から話かけられても無暗に口を利いてはいけない」なぞと云って聞かせておりましたが、今から考えますと、やはりあの狸穴《まみあな》の先生が云った事は適中《あた》っていたので、母は何か人に、つけ狙われるような憶えがありましたために、自分達の居所をできるだけ隠そうとして、いろいろと気を揉《も》んでいたのだろうと思います。
――学校に居る間は寄宿舎に這入っていましたが、土曜の晩から日曜へかけてはキット直方へ帰って来ました。休暇の間もずっと家《うち》に居て毎朝すこし早く起きて母の手伝《てつだい》をしたり何かしましたが、その代り夜は九時か十時頃に寝るのでした。母はずいぶん気の強い女で、人気《にんき》の悪い直方に住んでいながら、僕の居ない時はたった一人でこの室《へや》に寝るのでしたが「朝は八時半頃からボツボツ生徒が来るし、夜は十一時頃まで休む間もないから、ちっとも淋しいとは思わない。勉強の忙《せわ》しい時なぞは無理に帰って来なくてもいいよ」なぞとよく云っておりました。
――ついこの頃になっても別にかわった事はありませんでした。ただ、去年の夏でしたか、母が刺繍材料の包み紙になって来た亜米利加《アメリカ》の新聞を持って来て「これは何という人か」と尋ねますので、そこの処の記事を読んで見ましたら、ロンチェニーという活動俳優が扮した道化役《ピエロ》だとわかりましたので、母はつまらなさそうに「フン。そうかい」と云って降りて行きました。その時に僕の父は、あんな顔をした人間で外国に居るのだなと思いましたから、その写真は細かい処までよく記憶《おぼ》えています。チョット見ると大きなお蚕様《かいこさま》みたような顔でしたから、私はソッと下へ降りて、六畳に置いてある母の鏡台の前に行って、自分の顔を覗いて見ましたが、ちっとも似ていませんでし
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