すが、こればかりは、どうしても私の力に及びませぬので……」
「イヤ。わかったわかった。重々相わかった。流石《さすが》は一代の名法医学者だ。よいところへお気が付かれました……かね。ハハハハ。イヤ引受けた。たしかに引受けた」
「ドウモ……まことに……」
「ウンウン。心得た心得た。万事心得た。最早《もう》この事件をスッカリ頭から取り去て悠々自適の裡《うち》にビタミンを摂取したまえ……イヤ、ビタミンといえば、どうだい一ツ今から吉塚へ鰻《うなぎ》を喰いに行かないか。久振りに一杯……といっても、飲むのは吾輩だけだが……まあいいや。この事件に対する君の慰労の意味で……」
「ハイ、それはどうも……しかし、その少年の精神鑑定にはいつ頃御出張願えましょうか。私から裁判所へ通告致しておきますが……」
「ウン。それあいつでもいいよ。何も面倒な事じゃない。その少年の面《つら》をたった一目見ただけで、コレは殺人狂でも偽狂でも御座らぬ。しかし、なお細かい鑑定のために入院させる必要が御座るというので、この精神科へ連れてくる手筈が、今からチャンときまっているから他愛《たあい》ないね。若林博士の評判地に落ちるに反して、正木の名声隆々たりかネ……ハハハハハハ」
「恐れ入ります……ではこの書類はどう致しましょうか」
「……ア……そいつは吾輩が預かるんだっけね。ハテ、どうしようか……ウン。いい事がある。こちらへよこし給え……このストーブの中へ投《ほう》り込んで、こうして蓋をしておこう。今年の冬までは火を焚《た》く気遣いないからね。お釈迦《しゃか》ア様アでも気が付くめえ……と来やがった……」
「ハア……それは何の声色《こわいろ》ですか」
「声色じゃない。謡曲勧進帳の一節だ。法医学者の癖に何も知らないんだナア君は。アハ……」――【溶暗[#「溶暗」は太字]】――

 オーヤオーヤ……ナアーンのコッタイ……。天然色|浮出《うきだし》発声活動写真が、とうとう会話ばかりになってしまった。これじゃ下手なラジオか蓄音機と一緒だ。活弁もやって見るとナカナカ楽じゃないね。一々「御座います」とくっ付けるだけでも大変なお手数だ。ツイ面倒臭くなって「御座います」を抜きにしようとするもんだから、こんな事になるんだが……。おかげで少々くたびれたから今度は一ツ「御座います」抜きの「説明|要《い》らず」という映画を御覧に入れる。否……「説明要らず」どころではない。「スクリーン要らず」の「映写機要らず」の「フィルム要らず」の……これを要するに「何も彼《か》も要らずの映画」と云っても差支ないという……とても独逸《ドイツ》製の無字幕映画なぞいう時代遅れな代物《しろもの》が追付く話ではない。……というのはどんなシロモノかと云うと、種を明かせば何でもない。すなわち今の若林君が、吾輩に引渡して、吾輩が空《から》ストーブの中に抛《ほう》り込んでおいた一件の調査書を、吾輩が後から読んで要点だけを抜書きにして、自分一個の意見を書き加えた所謂《いわゆる》抜萃の各|頁《ページ》を、一枚|毎《ごと》に順序を逐《お》うて、映画として御覧に入れるのだ……というと又、ドエライ手数がかかるようだが、実は何でもない。ただ、その抜萃の原本を、この遺言書のココントコへ挿入しておくだけの手数で……エヘン……諸君もただ、それを読むだけで訳がわかるという……吾輩最近の発明にかかるトリック映画だ。今にこの式の映画が大流行を来《きた》すと思うから、何ならパテントをお譲りしても宜敷《よろし》い。御賛成の諸君がありましたら……ハイ只今……一寸《ちょっと》お待ち下さい。
 実はこの抜萃記録は吾輩の「心理遺伝論」の中に挿入しようと思っていたものであるが、そんな論文の原稿は最前すっかり焼棄てたけれども、特にこの一部だけは残しておいたものだ。諸君は今迄吾輩が説明したところによって、現在|天晴《あっぱ》れの精神科学者を兼ねた名探偵となって御座るわけだから、その力でこの記録を読んで行かれたならば、徹底的にこの事件の真相を看破して、ギャフンとまいる位の事は、何の雑作もあるまいと思う。
 ……この事件は如何なる心理遺伝の爆発に依《よっ》て生じたものか? その心理遺伝を故意に爆発させた者が居るか居ないか。又、居るとすればどこに居るか。そうしてこの事件に対する若林と吾輩の態度はこの事件の解決に対して、如何なる暗示を投げかけているか……という風にね。併し、よっぽど緊《しっか》りと褌《ふんどし》を締めてかからないと駄目だよ……なぞと脅かしておいて、その間に吾輩は悠々とスコッチを呷《あお》り、ハバナを燻《くゆら》そうという寸法だ……ハハン…………。


 ◆心理遺伝論附録◆[#「◆心理遺伝論附録◆」は本文より3段階大きな文字]…………各種実例[#「…………各種実例」は本文より1
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