ば、理解力もない。顕微鏡下に置かれた微生物と同様の無自覚、無定見のまま恍惚として、大勢に引かれながら大勢が行く。そこに無意味な感激があり、誇りと安心があるのであるが、しまいには何という事なしに感激のあまり夢中になって、惜し気もなく生命《いのち》を捨てて行く……暴動……革命等に陥って行く有様は、さながらに林檎酸《りんごさん》の一滴に集中する精虫の観がある。
 人間の心理はここに到って初めて物理や、化学式の運動変化の法則に近づいて来る。すなわち無生物と皮一重のところまで来るので、政治家、その他の人気取りを職業とするものが利用するのは、かような人間性の中心となっている黴菌性の流露に外ならないのである。
 斯様《かよう》な心理の中で、最単純、低級なものを中心にして、外へ外へと高級、複雑な動物心理で包み上げて、その上を所謂、人間の皮なるもので包装して、社交、体裁、身分家柄、面目人格なぞいうリボンやレッテルを以て飾り立て、お化粧を塗って、香水を振かけて大道を闊歩して行くのが、吾々人類の精神生活であるが、その内容を解剖してみると大部分は右の通りに、人体細胞の中に潜在している祖先代々の動物心理の記憶が、再現したものに他ならない事が発見されるのである。しかしこれとても前に述べた肉体の解剖的観察と同様、胎児が如何にしてそんな千万無量の複雑多様の心理の記憶を、その細胞の潜在意識、もしくは本能の中に包み込んで来ているのか、
「何が胎児をそうさせたか」
 というような事柄は全く説明されていない。否、一個の人間の精神の内容が、そんなような過去数億年間に於ける、万有進化の遺跡そのものであるという事実すらも「人間は万物の霊長」とか「俺は人間様だぞ」とかいう浅薄《あさはか》な自惚《うぬぼ》れに蔽《おお》い隠されて、全然、注意されていない状態である。

 以上は胎児の胎生と、その胎生によって完成された成人の肉体と、精神上に現われている、万有進化の遺跡に関する不可思議現象を列挙したものであるが、次にはその人間が見る「夢」の不可思議現象に就いて観察する。

 夢というものは昔から不思議の代表と認められているので、少しでも意外な事に出会うと、直ぐに「これは夢ではないか」と考えられる位である。実物とすこしも違わぬ森羅万象《しんらばんしょう》が見えるかと思うと、想像も及ばぬ奇抜、不自然な風景や、品物がゴチャゴチャと現われたり、その現われた風物に、現実世界に於ける心理や、物理の法則が、その通りに行われて行くかと思うと、神話、伝説にもないような突飛《とっぴ》な法則によって、その風物が行きなり放題に千変万化したりするので、その夢の正体と、そうした夢の中の心理、景象の変化の法則については古来、幾多の学者が、頭を悩まして来たものであるが、ここにはそのような夢の特徴の中でも、夢の本質、正体を明らかにする手がかりとして最も重要な、左の三項を挙げる。
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 (一[#「一」は太字])夢の中の出来事は、その進行して行く移り変りの間に非常に突飛な、辻褄《つじつま》の合ないところが屡々《しばしば》出て来る。否。そのような場合の方がズッと多いので、そんな超自然な景象、物体の不合理極まる活躍、転変が、すなわち夢であると考えた方が早い。にも拘わらず、その夢を見ているうちには、そうした超自然、不合理を怪しむ気が殆ど起らないばかりでなく、その出来事から受ける感じがいつでも真剣、真面目《しんめんもく》で、現実もしくは現実以上に深刻痛切なものがあること。
 (二[#「二」は太字])未だ曾て、見た事も聞いた事もない風景や、ステキもない天変地妖が、実際と同様の感じをもって現われて来ること。
 (三[#「三」は太字])夢の中に現われて来る出来事は、それが何年、何十年の長い間に感じられる連続的な事件であっても、それを見ている時間は僅に分、もしくは秒を以て数え得る程に短かいものである事が近代の科学によって証明されていること。
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 以上列挙して来たところの「胎児」と「夢」とに関する各種の不可思議現象は、何人《なんぴと》も否定し得ない科学界の大疑問となっているのであるが、しかも、そうした不可思議現象が、何故《なにゆえ》に今日まで解決されていないか。これらの不思議を解決する鍵が、どうして今日まで、誰にも見当らなかったかという疑問について考えてみると、これには二つの原因がある。
 その一つは人間を胎生させ、且《か》つ、その胎生によって完成した成人に夢を見せるところの人体細胞に関する従来の学者の考え方が、全然間違っていること、それから今一つは、この宇宙を流れている「時間」というものに対する人類一般の観念が、根本的に間違っていること……とこの二つである。
 言葉を換えて云えば、人体を組
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