名乗って出たにしたところが、斎藤先生が墓の下から蘇生して来られる訳ではなし、ただ、自分一人が不愉快な汚名の下に、何かの制裁を受けるだけの事に過ぎないのだから、結局、社会の損害を増す意味になる……といったような考え方をしているのじゃないでしょうか……否。むしろ今頃はモウとっくの昔に忘れてしまっているかも知れないのですが……」
「……でも卑怯じゃないですか。それは……」
「……申すまでもない事です」
「……第一、忘れられる事でしょうか……そんな事が……」
「……さあ……そのような問題は、故、正木先生の所謂《いわゆる》『記憶と良心』の関係に属する、面白い研究事項ではないかと考えられるのですが……」
「それでは斎藤先生の死は、それだけの意味で、おしまいになったのですね」
「さよう。それだけの意味で終ったのです。まことに呆気《あっけ》ないものであったのですが、しかし、その結果から申しますと、誠に大きな意味を含む事になったのです。すなわち斎藤先生の死は、やがて正木先生が、当、九大精神病科の仕事を担任されて、この椅子に座られる直接の因縁となり、更に、貴方と、あの六号室の令嬢とを、この教室に結び付ける間接の因縁ともなったのです。さよう……ここでは仮りに因縁と申しておきましょう。しかしこの因縁が、果して人為のものか、それとも天意に出《い》でたものであるかは、やはり貴方が御自身の過去の御記憶を回復されました後《のち》でないと、確定的な推測が出来ませぬので……」
「アッ……そ……そんな事まで、僕の記憶の中に……」
「そうです。貴方の過去の御記憶の中には、そのような疑問の数々を解くのに必要な、大切な鍵までも含まれているのです」
 私は次から次に落ちかかって来る疑問の氷塊《ひょうかい》に、全身を埋め込まれるような気がした。思わず眼を閉じながら、頭を左右に振り動かしてみた。けれどもそこからは、何等の記憶も湧き出して来なかった。ただ、それに連れて眼の前に惨酷《むご》たらしい『狂人|焚殺《ふんさつ》』の絵額や、ニコニコしている斎藤博士の肖像や、蒼白い、真面目な若林博士や、緑色に光る大|卓子《テーブル》や、その上に欠伸《あくび》をし続けている赤い達磨《だるま》の灰落しまでもが、一つ一つに私の過去と、深い関係を持っているものであるかのように思われて来た。同時に、それにつれて、そんな因縁深い品物ばかりに取巻かれていながら、何一つとして思い出すことの出来ない私の頭のカラッポさを自覚させられて、シミジミと物悲しくなって来るばかりであった。
 私は一寸《ちょっと》の間、途方に暮れたような気持になって、眼ばかりパチパチさせていたようであったが、やがて又、フト思い出したように問うた。
「ハア。ではその行衛不明になられた正木先生は、どうしてこの大学に来られるようになったのですか」
「それは斯様《かよう》な仔細《わけ》です」
 と云ううちに若林博士は、出しかけていた時計を又ポケットの中に落し込んだ。弱々しい咳払いを一つして話を続けた。
「ちょうど斎藤先生の葬儀の式場に、正木先生がどこからともなく飄然《ひょうぜん》と参列しに来られたのです。多分、新聞の広告を見られたものと思われますが……それを松原総長が、葬式の済んだ後で捉《つか》まえまして、その場で斎藤先生の後任を押付けてしまったものです。これは非常な異式だったのですが、あれ程に人格の高かった斎藤先生の遺志を、外ならぬ総長が取次《とりつい》だのですから、誰一人として総長の斯様《かよう》な遣《や》り方を、異様に思う者はありませんでした。却《かえ》って感激の拍手を以て迎えられた位です。……その当時の新聞を御覧になれば、この間《かん》の消息が詳しく素破抜《すっぱぬ》いてありますが、その時に正木先生は、見窶《みすぼ》らしい紋付《もんつき》、袴《はかま》の姿で、教授連の拍手に取巻かれながら、頭を抱えて、こんな不平を云われたものです。
「弱ったなあ。僕は飽《あ》く迄も独力で研究したかったんだがなあ。大学の先生になると、好きな木魚が叩かれないし、チョンガレ節も唄えなくなるだろう。第一、持って生れた漂浪性が発揮出来ないからナア……」
 と悄《しょ》げ返って云われましたが、これを聞いた松原総長が……
「……今更、文句を云われても取返しが附きませんよ。これは斎藤先生の霊に招き寄せられた貴方の方が悪いのですからね……木魚ぐらいはイクラ叩かれても宜しいから、是非一つ成仏して頂きたい」
 と云われましたので、皆、場所柄を忘れて腹を抱えた事でした。
 ……正木先生は、それから間もなく当大学に就任して来られますと、今までキチガイ地獄のチョンガレ祭文《さいもん》の中で唄っておられた『狂人の解放治療』という実験を、実際に着手されまして、又も異常な反響を一般社会に
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