…彼女にハッキリした返事を聞かすべく……。
 こうして私は何十分の間……もしくは何時間のあいだ、この部屋の中を狂いまわったか知らない。けれども私の頭の中は依然として空虚《からっぽ》であった。彼女に関係した記憶は勿論のこと、私自身に就《つ》いても何一つとして思い出した事も、発見した事もなかった。カラッポの記憶の中に、空《から》っぽの私が生きている。それがアラレもない女の叫び声に逐《お》いまわされながら、ヤミクモに藻掻《もが》きまわっているばかりの私であった。
 そのうちに壁の向うの少女の叫び声が弱って来た。次第次第に糸のように甲走《かんばし》って来て、しまいには息も絶え絶えの泣き声ばかりになって、とうとう以前《もと》の通りの森閑とした深夜の四壁に立ち帰って行った。
 同時に私も疲れた。狂いくたびれて、考えくたびれた。扉《ドア》の外の廊下の突当りと思うあたりで、カックカックと調子よく動く大きな時計の音を聞きつつ、自分が突立っているのか、座っているのか……いつ……何が……どうなったやらわからない最初の無意識状態に、ズンズン落ち帰って行った……。

 ……コトリ……と音がした。
 気が付くと私は入口と反対側の壁の隅に身体《からだ》を寄せかけて、手足を前に投げ出して、首をガックリと胸の処まで項垂《うなだ》れたまま、鼻の先に在る人造石の床の上の一点を凝視していた。
 見ると……その床や、窓や、壁は、いつの間にか明るく、青白く光っている。
 ……チュッチュッ……チョンチョン……チョン……チッチッチョン……。
 という静かな雀《すずめ》の声……遠くに辷《すべ》って行く電車の音……天井裏の電燈はいつの間にか消えている。
 ……夜が明けたのだ……。
 私はボンヤリとこう思って、両手で眼の球《たま》をグイグイとコスリ上げた。グッスリと睡ったせいであったろう。今朝、暗いうちに起った不可思議な、恐ろしい出来事の数々を、キレイに忘れてしまっていた私は、そこいら中が変に剛《こわ》ばって痛んでいる身体を、思い切ってモリモリモリと引き伸ばして、力一パイの大きな欠伸《あくび》をしかけたが、まだ充分に息を吸い込まないうちに、ハッと口を閉じた。
 向うの入口の扉《ドア》の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の膳《ぜん》が這入って来るようである。
 それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。……吾《われ》を忘れて立上った。爪先走りに切戸の傍《かたわら》に駈け寄って、白木の膳を差入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を狙《ねら》いすまして無手《むず》と引っ掴んだ。……と……お膳とトースト麺麭《パン》と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。
 私はシャ嗄《が》れた声を振り絞った。
「……どうぞ……どうぞ教えて下さい。僕は……僕の名前は、何というのですか」
「……………………」
 相手は身動き一つしなかった。白い袖口《そでぐち》から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。
「……僕は……僕の名前は……何というのですか。……僕は狂人《きちがい》でも……何でもない……」
「……アレエ――ッ……」
 という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私に掴まれた紫色の腕が、力なく藻掻《もが》き初めた。
「……誰か……誰か来て下さい。七号の患者さんが……アレッ。誰か来てェ――ッ……」
「……シッシッ。静かに静かに……黙って下さい。僕は誰ですか。ここは……今はいつ……ドコなんですか……どうぞ……ここは……そうすれば離します……」
 ……ワ――アッ……という泣声が起った。その瞬間に私の両手の力が弛《ゆる》んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ脱《ぬ》け出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。

 一所懸命に縋《すが》り付いていた腕を引き抜かれて、ハズミを喰《くら》った私は、固い人造石の床の上にドタリと尻餅《しりもち》を突いた。あぶなく引っくり返るところを、両手で支え止めると、気抜けしたようにそこいらを見まわした。
 すると……又、不思議な事が起った。
 今まで一所懸命に張り詰めていた気もちが、尻餅を突くと同時に、みるみる弛んで来るに連《つ》れて、何とも知れない可笑《おか》しさが、腹の底からムクムクと湧き起り初めるのを、どうすることも出来なくなった。それは迚《とて》もタマラナイ程、変テコに可笑しい……頭の毛が一本|毎《ごと》にザワザワとふるえ出すほどの可笑しさであった。魂のドン底からセリ上って、全身をゆすぶり上げて、あとからあとから止《と》め度《
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