です。……そのキチガイ先生の騒ぎが、マンマと首尾よく成功した暁《あかつき》には、先生のお望み通りに精神科学が、この地上に於ける最高の学問となって来るのです。同時にこの大学みたように精神病科を継子《ままこ》扱いにする学校は、全然無価値なものになってしまうのです。……ですから、それを楽しみにして、精々《せいぜい》長生をして待っていらっしゃい。学者に停年はありませんからね」
といったような事だったと記憶しておりますが、これには流石《さすが》の斎藤先生も呆《あき》れておられましたようで……一緒に聞いておりました私も、少なからず驚かされた事でした。第一、こんな予言者めいた事を、正木先生が果して本気で云っておられるのか、どうかすら判然致しませんでしたので……正木先生がこの時、既に、自分自身で、そのような精神病者を作り出して、学界を驚ろかそうと計劃しておられた……なぞいうような事が、その時代にどうして想像出来ましょう。……のみならず正木先生が、かような突拍子もない事を云って人を驚かされる事は、その頃から決して珍らしい事ではありませんでしたので、斎藤先生も私も、この事に就いては格別に不審を起した事もなく、深く突込んで質問した事なぞもありませんでした。
……ところが間もなく、斯様《かよう》な斎藤先生の御不満が、正木先生の天才的頭脳と相俟《あいま》って、当時の大学部内に、異常な波瀾を捲き起す機会が参りました。それは、ちょうど、私共が当大学を卒業致します時で、正木先生が卒業論文として『胎児の夢』と題する怪研究を発表されたのに、端《たん》を発したので御座いました」
「……胎児……胎児が夢を見るのですか」
と私は突然に頓狂な声を出した。それ程に胎児の夢[#「胎児の夢」に傍点]という言葉が、異様な響きを私の耳に与えたのであった……が……しかし若林博士は矢張《やは》りチットモ驚かなかった。私が驚くのが如何にも当然という風にうなずいた。手にした書類を一枚一枚、念入りに繰り拡げては、青白い眼で覗き込みながら……。
「……さようで……その『胎児の夢』と申します論文の内容も、追付《おっつ》けお眼に触れる事と存じますが、単にその標題を見ましただけでも尋常一様の論文でない事がわかります。普通人が見る、普通の夢でさえも、今日までその正体が判然《わか》っておりませぬのに、況《ま》して今から二十年も昔に遡《さかのぼ》った……貴方がお生れになるか、ならない頃に、学術研究の論文として斯様な標題が選まれたのですからね。……のみならず正木先生の頭脳が尋常でない事は、予《か》ねてから定評がありましたので、この論文の標題は忽ち、学内一般の評判になりまして、ドンナ内容だろうと眼を瞠《みは》らぬ者はないくらいで御座いました。
……ところがサテこの論文が、当時の規定に従って、学内全教授の審査を受ける段取りになりますと、その文体からして全然、従来の型を破ったもので、教授の諸先生を唖然たらしむるものがありました。……と申しますのは、元来、正木先生は語学の天分にも十二分に恵まれておられましたので、英独仏の三箇国語で書かれたものは、専門外の難解な文学書類でも平気で読破して行かれるというのが、学生仲間の評判になっていた程です。……ですから卒業論文なぞも無論、その頃まで学術用語と称せられていた独逸《ドイツ》語で書かれている事と期待されておりましたのに、案に相違して、その頃まではまだ普及されていなかった言文一致体の、しかも、俗語や方言|混《まじ》りで書いてあるのでした。その上にその主張してある主旨というものが又、極端に常軌を逸しておりまして、その標題と同様に、人を愚弄《ぐろう》しているかの如く見えましたので、流石《さすが》に当時の新知識を網羅した新大学の諸教授も、ことごとく面喰らわされてしまいました。その中でも八釜《やかま》し屋を以《もっ》て鳴る某教授の如きは憤激の余りに……
「……こんな不真面目な論文を吾々に読ませる学長からして間違っている。正木の奴は自分のアタマに慢心しておるから、こんなものを平気で提出するのだ。当大学第一回の卒業論文|銓衡《せんこう》の神聖を穢《けが》す者は、この正木という青二才に外《ほか》ならない。こんな学生は将来の見せしめのために放校してやるがいい」
と敦圉《いきま》いているという風評が、学生仲間に伝わった位でありました。むろんこれは事実であったろうと思いますが……。
……斯様《かよう》な事情で、卒業論文銓衡の教授会議に対しては、学内一般の緊張した耳目が集中していたのでありますが、サテ、愈々《いよいよ》当日となりますと果して各教授とも略々《ほぼ》、同意見で、放校はともかくもとして、この論文を卒業論文としてパスさせる事だけは即決否決という形勢になりました。するとその時に
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