せてくれるであろう事を確信しつつ、幾何《いくばく》もない余命を一|刹那《せつな》に縮めつつ、努力しているのだ」
「……………」
「……とはいえ……これは現在の君の頭から考えると、実に不可解と不合理とを極めた註文と思われるかも知れない。吾輩と若林とが、あの呉一郎と瓜二つによく似ている君を換え玉か何かに使って、虚偽の学術研究を完成して、それを又、虚偽の方法で発表しようと試みているかのように誤解されるかも知れない。しかし……しかし……吾輩は天地の霊に誓って云う。それは吾々二人の間の私的の駆引にこそ凡百《あらゆる》虚偽が含まれておれ、その行っている学術の実験と、それによって証明さるべき学理、原則の中には、一点、微塵《みじん》の虚偽も含まれていないのだ。ただ、その内容とは全然無関係な発表の形式方法にだけ、止《やむ》を得ない虚偽が混っていた訳であるが、それもタッタ今、真実の形に訂正して、君に報告してしまったばかりのところである。
……だから……これだけは、どこまでも吾々を信じてもらいたい。……君は疑いもなくこの実験の経過を、真実の形に直して発表すべき、唯一の責任者なのだ。すなわち若林の調査書類と、吾輩の遺言書とを、一まとめにしてこれに一つの結論をつけて、学界に発表すべく、神様の思召《おぼしめし》によって選まれた無二の資格者である事が、君の過去の記憶の回復と共に判明するであろうことを、吾輩も若林も信じて疑わないのだ……否、吾輩と若林ばかりでない。一般社会の人々とても、万一君の姓名を知り得るような事があったならば……君の名前は既に、今までの話の中に幾度となく出て来た名前で、世間にも相当記憶されている筈であるが……単にその名前を聞いただけでも、すぐに君より以外に、この仕事の適任者が絶対にいない事を確認するであろう事が、火を睹《み》るよりも明らかに解り切っているのだ。……だから吾輩は、君が精神状態を回復しかけている事がわかると同時に、いよいよ安心してこの遺言書を書く事が出来たのだ。
……しかし吾輩が自殺の決心をしたのは全く別の理由からである。それは昨日の正午を期して、あの解放治療場内に勃発した大悲惨事が、吾輩の責任感を刺戟したからでもなければ、又は、この日が偶然に、斎藤先生の祥月《しょうつき》命日に当っていたために、一種の天意とか、無常とかを観じたからでもない。正直なところを云うと
前へ
次へ
全470ページ中428ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング