ませて、その隙《すき》に仕事をするという段取りになるのだ。もっともこの姪の浜という処は半漁村で、鮮魚を福岡市に供給している関係から、よく虎列剌《コレラ》とか、赤痢《せきり》とかいう流行病の病源地と認められる事があるので、その手の病原菌を使うと手軽でいいのだが、しかしこの種のバクテリヤは、その人間の体質や、その時その時の健康の状態によって利かない事があるから困る。いずれにしても九大の法医学教室は衛生、細菌の教室と共同長屋で、細菌や毒物の研究が盛だから、その方の手筈には頗《すこぶ》る便利な訳だと思う。とにかく微塵《みじん》も狂いのないようにして取りかかったところに、この事件の特徴があるのだからね。
……次に当日、呉一郎が福岡市の出外《ではず》れの今川橋から姪の浜まで、約一里の間を歩いて帰るとすれば、是非ともあの石切場の横の、山と田圃《たんぼ》に挟まれた国道を通らなければならぬ事は、戸倉仙五郎の話にも出ていたが、これは実地を見ても直ぐにうなずける。麦はもう大分伸びている頃だが、深い帽子に色眼鏡、薄い襟巻とマスク、夏マントなぞいうものを取合わせて、往来に近い石の間か何かに腰をかけて、動かない事にしておれば、顔形や背恰好までもかなり違った人間に見せかける事が出来たであろう。……そこで帰って来る呉一郎を呼び止めて、言葉巧みに誘惑するんだね。たとえば……実は私は貴方《あなた》の亡くなられたお母様を存じている者ですが、まだ貴方がお幼少《ちいさ》いうちに、貴方の事に就いて極く秘密のお頼みを受けている事がありました。そのお約束を果すために、斯様《かよう》な処でお待ち受けしていたのです……テナ事を云えばイクラ呉一郎が人見知り屋のお坊ちゃんでも引付けられずにはいられないだろう。そこでその絵巻物を勿体らしく出して見せて……これは呉家の宝物で、お母様が家中《うち》に置いておくと教育上悪いからというので、私に預けておかれたものですが、最早《もう》、明日《あした》からは貴方が一軒の御家庭の主人公になられると承《うけたまわ》りましたから、御返却《おかえ》しに参りました。つまり貴方が、モヨ子さんと式をお挙げになる前に、是非とも見ておかれなければならぬ品物で、貴方の遠い御先祖に当る或る御夫婦があらわされた、この上もない忠義心と愛情との極致をこの中に描きあらわして在るのです。これに就ては色々な恐ろしい噂
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