後へ退《ひ》く事は、学者としての良心が第一、許さないだろう。つまり若林の立場としては、否《いや》でも応《おう》でも、この事件の真犯人を有耶無耶《うやむや》に葬り去る事が、どうしても出来ない立場におるのだ。……然《しか》るにだ。……一方に吾輩の立場はどうかというと、必ずしもそうでない。そうした若林の探偵的な努力、苦心に対しては助手ほどの責任もない。単なる私的の相談役の仕事をして来たに過ぎないのだ。……いいかい……それよりも吾輩の専門上、当然の責任として、全力を挙げて来たのは君自身、もしくは呉一郎の『頭の回復』であったんだが、併しそれにしてもその犯人の名前とか、顔とかを是非とも思い出させなければならぬ責任とか、必要とかいうものは全然こっちにはないのだ。……というのは精神病学者としての吾輩の立場から見ると、発病の原因と経過さえ判明すれば、発狂さした犯人の名前は、目下不明と書いておいても、研究発表上、何等の差支《さしつか》えがないのだからね。……呉一郎の発病の状態と、この絵巻物との関係は、心理遺伝学的な立場から立派に説明が付く事だし、学術上の発表としての価値は、もう十分、十二分に備わっている訳だからね。それを若林が躍気《やっき》になって、是非とも犯人を探し出してもらいたいと云ってヤイヤイ騒ぎ立てるために、ツイこんな事になってしまったんだが……とにかく吾輩は、そんな訳で、犯人なぞに用はないんだ……ハハン……」
 こう云い放った正木博士は、悠然と椅子の上に両肱を張った。呆れている私を眼下に見下しながら葉巻の煙を輪に吹いた。
 私は、その如何にも学者然たる冷やかな風付《ふうつ》きに、云い知れぬ反感を唆《そそ》られない訳に行かなかった。そればかりでなく、その人を愚弄しておいて突放すような態度に対して、たまらない不愉快を感じ初めたので、私は思わず座り直して咳払いをした。
「……そ……それあ怪《け》しからんじゃないですか先生。……いくら学者だってアンマリ冷淡過ぎはしませんか」
「冷淡過ぎたって仕方がない。よしんば吾輩が大負けに負けて、若林の加勢をして、その犯人を探し出したにしたところが、そいつをフン縛る法律が在るか無いか……」
 私は眼の中が何となく熱くなって来るのを感じた。云いたい事を一ペンに云って終《しま》おうとして、云えなくなったような気がして……。
「……法律……法律なんてもの
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