》し得べし。
 尚、被害者の手中その他には何物も止《とど》めず。或は軽き麻酔を施されたるものに非ずやとも疑わる。
 尚又、当時犯行用と認められし帯締めは、その後、数名の警官の手に転々したる後《のち》なりしを以て、何等犯人に関する証跡を検出するを得ず。
 (丙[#「丙」は太字])呉一郎は、麻酔を施されたるものなる事を、同人の談話に現われたる予後の諸徴候に依りて推測し得べし。
 (丁[#「丁」は太字])屍体は死後約四十時間目に、同女塾の裏庭に於て、舟木医学士立会、余(W氏)執刀の下に解剖の結果、最近に於ける性交の形跡なく、子宮には、嘗《かつ》て一児を孕《はら》みたる痕跡を止《とど》むるのみなる事を確かめ得たり。

 如上《じょじょう》の事実に依《よ》り犯人及び犯行の目的等に関する推定は殆んど困難なり。然れども、犯人は相当の学識あり、麻酔剤の使用に慣れ、思慮深く、且つ腕力|逞《たく》ましからざる者なる事、及び犯行が呉一郎に及ぶ事を好まざりし者なる事を推測し得《う》べし。(中略)。その筋の捜索方針は、初め如上の推定に基《もとづ》きて進行し、呉一郎を釈放したるも結局、再びこの方針を放棄し、純然たる見込捜索に移りたるため、遂《つい》に何等|得《う》るところなく、事件は所謂《いわゆる》迷宮裡に遺棄さるるに到りたり。(下略)

 ▼右に関する精神科学的観察

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 この事件は著者(正木)自身が直接に調査したるものに非《あら》ざるを以て、専門の精神科学的の考察と説明には多少の不便を感ずるものなり。然れどもW氏が、同氏独特の法医学的の見地に立ちて調査記録したる、この事件の各種の特徴に依て観察する時は、この事件の真相が現代の所謂、科学知識及び、これに伴う所謂常識の発達範囲に於ては、到底判断し且《かつ》、説明し得べからざる「心理遺伝の発作」にあること疑《うたがい》を容れず。筆者の所謂「犯人無き犯罪」の最も顕著なる好適例なり。すなわちW氏の最初の直覚が適中しおりたる事を、一切の事象が指しいる事を一々摘出、明示し得べし。W氏が事件後も尚《なお》、この点に関する疑念を捨てず、前掲の如き貴重なる談話を記録せる、その用意の周到なるに、劈頭《へきとう》の敬意を表せざるを得ざるものなり。
 乃《すなわ》ち前記W氏の観察と、三項の談話とを通じて、この事件の真相を究《きわ》むべき、観察要
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