同博士が棺の蓋を閉じた音に違い御座いませんので、ステトスコープもその時に、着物の下へ置き忘れて来たものと考えられるからであります。……が、それと同時に、極めて些細な事ではありますけれども、斯様な大切な商売道具を置き忘れるという事は、平生の同博士の極度に冷静周密な性格から推して考えますと、真に意外と思われる出来事で、今夜の若林博士は、確かに平常と違った心理状態にある。少くとも同博士が如何に夢中になって、この少女をこの世に呼び活《い》かすべく闇黒の中で苦心、熱中していたかという事は、この一事を以てしても、十二分に察せられる訳では御座いますまいか。
しかし若林博士の手腕が、如何に卓抜恐るべきものがあるかという事は、まだまだこれから追々《おいおい》とお解りになりますので、今迄のところはホンの皮切《かわきり》に過ぎないので御座います。
若林博士は、解剖台上の少女が、その仮死状態から時々刻々に眼醒つつある事を知りますと、御覧の通り極めて緊張した態度で、左右の手袋を脱ぎました。解剖着の下にまん丸く膨れております洋袴《ズボン》のポケットにその手を突込んで、色々な品物を取出しながら、一つ一つ傍《かたわら》の木机の上に並べました。白髪染《しらがぞめ》の薬瓶と竹の歯ブラシ。三四本の新しい筆。小さな墨汁《すみ》の鑵《かん》。頬紅と口紅を容れたコンパクト。化粧水。香油。クリーム。練白粉《ねりおしろい》の色々……等々々。いずれも、斯様《かよう》な部屋に似合しからぬ品物ばかりで……。それから入口に近い棚の奥に隠してありました茶色の紙包を開きますと、中から白木綿と白ネルの筒袖の着物、安っぽい博多織《はかたおり》の腰帯、都腰巻《みやここしまき》、白い看護婦服と帽子、バンドの一揃い、スリッパ、看護婦帽、ヘヤピンなぞの、いずれも新しいものばかりを取出しまして、やはり傍の木机の上に置き並べました。斯様な品物は皆、昼間から準備していたもので、多分、解剖台上の少女に着せるつもりではないかとも思われますけれども、何のために、そんな事をするのかという事はまだ判明致しませぬ。
次に若林博士は、今一度ステトスコープを取り出して、少女の心音を念入りに聴き直した上で、向うの薬棚から小さな茶色の瓶を取って参りまして、その中の無色透明な液体を、心持ち顔を反《そむ》けながら、脱脂綿の一片の上にポトポトと滴《たら》しました
前へ
次へ
全470ページ中212ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング