が、この博士にとって何故に、それ程の重大事件なのであろう……。
私は二重三重に面喰わせられたまま、掌《てのひら》の上の名刺と、若林博士の顔を見比べるばかりであった。
ところが不思議なことに若林博士も、私のそうした顔を、瞬《またたき》一つしないで見下しているのであった。私の返事を待つつもりらしく、口をピッタリと閉じて、穴のあく程私の顔を凝視しているのであったが、その緊張した表情には、何かしら私の返事に対して、重大な期待を持っている心構えが、アリアリと現われているのであった。私が自分自身の名前を、過去の経歴と一緒に思い出すか、出さないかという事が、若林博士自身と何かしら、深い関係を持っているに違いない事が、いよいよたしかにその表情から読み取られたので、私は一層固くなってしまったのであった。
二人はこうして、ちょっとの間《ま》、睨《にら》み合いの姿になった……が……そのうちに若林博士は、私が何の返事もし得ない事を察したかして、如何《いか》にも失望したらしくソット眼を閉じた。けれども、その瞼《まぶた》が再び、ショボショボと開かれた時には、前よりも一層深い微笑が、左の頬から唇へかけて現われたようであった。同時に、私が呆然となっているのを、何か他の意味で面喰っているものと感違いしたらしく、微《かす》かに二三度うなずきながら唇を動かした。
「……御尤《ごもっと》もです。不思議に思われるのは御尤も千万です。元来、法医学の立場を厳守していなければなりませぬ私が、かように精神病科の仕事に立入りますのは、全然、筋違いに相違ないので御座いますが、しかし、これにつきましては、万止むを得ませぬ深い事情が……」
と云いさした若林博士は、又も、咳嗽《せき》が出そうな身構えをしたが、今度は無事に落付いたらしい。ハンカチの蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けた。
「……と申しますのは、ほかでも御座いません。……実を申しますとこの精神病科教室には、ついこの頃まで正木敬之《まさきけいし》という名高いお方が、主任教授として在任しておられたので御座います」
「……マサキ……ケイシ……」
「……さようで……この正木敬之というお方は、独り吾国のみならず、世界の学界に重きをなしたお方で、従来から行詰《ゆきつま》ったままになっております精神病の研究に対して、根本的の革命を起すべき『精神科学』に対す
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