り知り得る範囲を遥かに超越しているのでありますが、しかし、正木博士のそうした突飛《とっぴ》な、大袈裟《おおげさ》な行動の中に、解放治療の開設に関する何等かの準備的な御苦心が含まれている事は、否《いな》まれない事実と考えられます。これからお話致します正木先生の変幻出没的な御行動の一つ一つにも皆、そうした意味が含まれておりますようで、言葉を換えて申しますと、正木先生の後半の御生涯は、その一挙手一投足までも、貴方を中心として動いておられたものとしか考えられないので御座います」
若林博士はコンナ風に云いまわしつつ、その青冷めたい、力ない視線をフッと私の顔に向けた。そうして私がモウ一度座り直さずにはおられなくなるまで、私の顔を凝視していたが、そのうちに私が身動きは愚か、返事の言葉すら出なくなっている様子を見ると、又、気をかえるようにハンカチを取出して、小さな咳払《せきばら》いをしつつ、スラスラと話を進めた。
「……然《しか》るに去る大正十三年の三月の末の事で御座います。忘れもしませぬ二十六日の午後一時頃の事でした。卒業されてから十八年の長い間、全く消息を絶っておられた正木先生が、思いがけなく当大学、法医学部の私の居室《へや》をノックされましたのには、流石《さすが》の私もビックリ致しました。まるで幽霊にでも出会ったような気持ちで、何はともあれ無事を祝し合った訳でしたが、それにしても、どうしてコンナに突然に帰って来られたのかとお尋ねしますと、正木先生は昔にかわらぬ磊落《らいらく》な態度で、頭を掻き掻きこんなお話をされました。
「イヤ。その事だよ。実は面目ない話だがね。二三週間|前《ぜん》に門司《もじ》駅の改札口で、今まで持っていた金側《きんがわ》時計を掏摸《すり》にして遣《や》られてしまったのだ。モバド会社の特製で時価千円位のモノだったが惜しい事をしたよ。そこでヒョイッと思い出して、十八年前にお預けにしておいた銀時計がもし在るならばと思って貰いに来た訳だがね。……ところでその序《ついで》に、何か一つ諸君をアッといわせるような手土産をと思ったが、格別|芳《かん》ばしいものも思い当らないので、そのまま門司の伊勢源《いせげん》旅館の二階に滞在して、詰らない論文みたようなものを全速力で書き上げて来た。そこでまずこれを新総長にお眼にかけようと思って、斎藤先生に紹介してもらいに行ったら、そ
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