のですから、真に血湧き肉躍るものがありましたでしょう。止むを得ず、他の論文の銓衡《せんこう》を全部、翌日に廻わして、ラムプを点《つ》けて議論を続行しました結果、やっと午後九時に到って一同が完全に沈黙させられてしまいました。その時に、後《のち》に名総長と謳《うた》われました盛山学部長が裁決をしまして、この『胎児の夢』の一篇を、一個の学術研究論文と認める旨を宣言しまして、やっとこの日の会議を終る事になりました。そうしてその翌日と、その翌々日と三日がかりで全部十六通の論文を銓衡致しました結果、正木先生の『胎児の夢』が斎藤先生の御主張通りに、卒業論文中の第一位に推さるる事になったのであります。
 ……が……こうして評判に評判を重ねた、医学部の卒業式の当日になりますと、意外にも、恩賜《おんし》の銀時計を拝受すべき当の本人の正木医学士が、いつの間にか行衛《ゆくえ》不明になっている事が発見されまして、又も、人々を驚かしました」
「ホウ。卒業式の当日に行衛不明……どうしてでしょう」
 私が思わずこう口走ると、同時に若林博士は、何故かしらフッと口を噤《つぐ》んだ。恰《あたか》も何かしら重大な事を言い出す前のように、私の顔を凝視していたが、やがて、又、今までよりも一層慎しやかに口を啓《ひら》いた。
「正木先生が何故《なにゆえ》に、かかる光栄ある機会を前にして、行衛不明になられたかという真個《ほんと》の原因に就ては今日まで、何人《なんぴと》も考え及んだ者が在るまいと思います。無論、私にもその真相は解かっていないので御座いますが、しかしその正木先生の行衛不明事件と、今申上げました『胎児の夢』の論文との間に、何等かの因果関係が潜んでいるらしい推測が可能であることは疑を容《い》れないようであります。……換言致しますれば、正木先生は、御自分の書かれた卒業論文『胎児の夢』の主人公に脅やかされて行衛を晦《くら》まされたものではないかと考えられるので御座います」
「……胎児の夢の主人公……胎児に魘《おび》やかされて……何だか僕にはよく解りませんが……」
「イヤ。今のうちは、ハッキリとお解りにならぬ方が宜《よろ》しいと思いますが」
 と若林博士は私をなだめるように椅子の中から右手を上げた。そうして例の異様な微笑を左の眼の下に痙攣《ひきつ》らせながら、依然として謹厳な口調で言葉を続けた。
「……今のうちは
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