…という時計の音一つしか無いという世にも不可思議な痴呆患者の私ではないか。
その私が、どうして彼女の夫《おっと》として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお蔭《かげ》で、私の自由が得られるような事があったとしても、その時に私のホントウの氏素性《うじすじょう》や、間違いのない本名が聞かれるかどうか、わかったものではないではないか。……彼女が果して正気なのか、それとも精神病患者なのかすら、判断する根拠を持たない私ではないか……。そればかりじゃない。
万一、彼女が正真正銘の精神病患者で、彼女のモノスゴイ呼びかけの相手が、彼女の深刻な幻覚そのものに外《ほか》ならないとしたら、どうであろう。私がウッカリ返事でもしようものなら、それが大変な間違いの原因《もと》にならないとは限らないではないか。……まして彼女が呼びかけている人間が、たしかにこの世に現在している人間で、しかも、それが私以外の人間であったとしたらどうであろう。私は自分の軽率《かるはずみ》から、他人の妻を横奪《よこど》りした事になるではないか。他人の恋人を冒涜《ぼうとく》した事になるではないか……といったような不安と恐怖に、次から次に襲われながら、くり返しくり返し唾液《つば》を嚥《の》み込んで、両手をシッカリと握り締めているうちにも、彼女の叫び声は引っ切りなしに壁を貫いて、私の真正面から襲いかかって来るのであった。
「お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様。あんまりですあんまりですあんまりですあんまりですあんまりです……」
そのかよわい……痛々しい、幽霊じみた、限りない純情の怨みの叫び……。
私は頭髪《かみ》を両手で引掴んだ。長く伸びた十本の爪《つめ》で、血の出るほど掻きまわした。
「……お兄さまお兄さまお兄さま。妾は貴方《あなた》のものです。貴方のものです。早く……早く、お兄様の手に抱き取って……」
私は掌《てのひら》で顔を烈しくコスリまわした。
……違う違う……違います違います。貴女《あなた》は思い違いをしているのです。僕は貴女を知らないのです……。
……とモウすこしで叫びかけるところであったが、又ハッと口を噤《つぐ》んだ。そうした事実すらハッキリと断言出来ない今の私……自分の過去を全然知らない……彼女の言葉を否定する材料を一つも持たない……親兄弟や生れ故郷は勿論の事……自分が豚だったか人間だった
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