滅法に野山を歩るきまわる。言葉|訛《なまり》の違った山向うの村で、道傍《みちばた》の知らない小児と遊んだり、祭神のわからない神社の絵馬を眺めまわしたり、溜池に石を投込んだりして、それこそ心の底からルンペン気分になって行くうちに、案内もわからぬ野山の涯で日を暮らして、驚いて帰って来る。すると又、不思議な事が起りました。
 文章は一行も書けないのに俳句と川柳と短歌の出来ること出来ること。むろん碌《ろく》なものは出来ませぬ。短歌は大本教の王仁三郎《おにさぶろう》程度、俳句も川柳も月並以下の笊《ざる》で掬《すく》える程度のシロモノばかりですが、それでもその出て来るスピードには我ながら驚きました。俳句、川柳が一時間に二十か三十、短歌でも十四五ぐらいはペラペラと出て来ますので、ノートが忽ち一パイになってしまいます。あとで読み返してみても感心するものが一つもないので、とうとう癇癪を起して、そのノートを道傍の糞溜《くそだめ》の中に投込んでしまいましたが、今から考えても些《すこ》しも惜しいとは思いませぬ。今でも十七八字か三十一二字並んでいるだけなら一時間に二十や三十は平気ですからね。西鶴の二万句も、こんな時に思い立ったんじゃないかと思うのは、すこし僭上でしょうか。
 いずれにしても昨年の暮以来、私の頭が否、ペンが変調子を呈していることは、もはや疑う余地がありませぬ。書きたい材料がコンナにあって、書きたくて書きたくてウズウズしているのに、一行も書けないとなれば、その責任は当然、私のペンに在るに違いありませぬ。
 私にはこうしたスランプの因《よ》って来るソモソモが薩張《さっぱ》りわからないのです。書きたい事は山積していながら書けない。ペンを奪われて絶海の孤島に罪流されたような自烈度《じれった》さ。つまらなさ。淋しさ。私は、これを私の老朽のせいとも、行詰まりのせいとも思いたくありませぬ。何よりも私のペンの我ままが、絶頂に達したものと考えるのが、今の私の気持ちに一番ピッタリしているのです。
 それ位書ければスランプじゃないじゃないか……なぞと冷やかさないで下さい。実は私自身にも不思議で仕様がないのです。どうしても創作が書けないままに、そのお詫びをしようと思って書きはじめたら、ついスラスラと筆が辷ってコンナに長くなってしまったのです。読み返してみると決して面白い文章ではありませぬが、しかし、私自身の今の心持だけは、どうやらこうやら書けていると思います。
 いったいこれは何とした事でしょうか。スランプに陥っているペンが、スランプに関する事だけはスラスラと書けるというのは何という皮肉な現象でしょう。心理学者はこうした不思議な現象を何と説明してくれるでしょう。
 私のペンは真実な出来事でなければ書けなくなったのではないでしょうか。心にもない作り事を書きまわすのがほんとうにイヤになったのではないでしょうか。
 万一そうとすれば、それこそ一大事です。創作は大抵作りごとにきまっているのですから、私は将来永久に作り事すなわち創作なるものは書けなくなる訳です。創作の世界では首を縊《くく》らなければならぬ事になります。
 ああ。どうしたらいいでしょう。どうしたらこの苦境を通り抜ける事が出来るでしょう。
 私は今一度、創作の世界に蘇る事が、永久に不可能なのでしょうか。私は絵か、和歌か、俳句を作るよりほかに生きる道がなくなるのではないでしょうか。



底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:渥美浩子
2001年6月6日公開
2006年2月28日修正
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