からだ》を引っこめかけた。ブル・オヤジが、わざと云わなかった名前が相手にハッキリ通じたに違いないと思った。それと同時にウルフが正体をあらわすにちがいないと思った。今にも運転手の強力《ごうりき》に押えられている両手を振り切って、黒い包みを相手にタタキ付けるかと、息を詰めて身構えていたが、ウルフは矢張り、そんな気振りをチットモ見せなかった。ブル・オヤジからそう云われると同時に、意気地《いくじ》なくグッタリと首をうなだれてしまった。
 ウルフのそうした姿を見ると、ブル・オヤジは、なおのこと大きな声でタンカを切り出した。
「貴様等の秘密行動は一から十まで俺の耳に筒抜けなんだぞ。日本の警察全体の耳よりも俺の耳の方がズット上等なんだぞ。貴様がこのごろここへ出這入りし初めた事も、タッタ今、貴様の変装と一緒に、或る方面から電話で知らせて来たんだ。だから俺は大急ぎで飛ばして来た。貴様の面《つら》を見おぼえに来たんだ。いいか……」
「……………」
「……敵にするなら敵でもいい。貴様等の首を絞めるくらい何でもない。論より証拠この通りだ。貴様等みたいな青二才におじけ[#「おじけ」に傍点]て俺の荒仕事が出来ると思うか。しかし、きょうは許してやる。俺の可愛い奴のために見のがしてやる。ここで出会ったんだから仕方があるまい」
「………………」
「行け…………」
 ブル・オヤジが、こう云うのと一緒に、ウルフの両手を掴んでいた運転手が手を離して、グルリと相手の横ワキへまわった。その菜っ葉服のポケットの中でピストルを構えているのが真上から見ているせいか、よくわかった。
 けれどもウルフは行かなかった。その代りに今まで猫背に屈《かが》まっていた身体《からだ》をシャンと伸ばすと、共産党員らしい勇敢な態度にかわって、ブル・オヤジの真正面にスックリと突立った。二人はそのまま睨み合いをはじめた……。
 妾は何だかつまんなくなって来た。
 睨み合っている二人はお互いに、お互い同志の事を知り過ぎるくらい知り合っているのだった。それでいてこの妾に気兼ねをしているために、何んにも手出しが出来ずにいるのだった。
 妾は窓から首を引っこめて、大きなクシャミを一つした。寝台の下に手を入れて、コロコロ倒れる瓶の間から、重たいパンの固まりを取り上げると、その横腹をやぶきながら、もう一度窓の下をのぞいてみた。
 五階の下の往来では二
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