トモット不思議な事には、その男の凹《へこ》んだ眼の底に、裸体か、もしくは裸体に近い女の姿がチラリとでも映ると、それが絵であろうと、実物であろうと見境《みさか》いは無い。破れ千切《ちぎ》れた登山靴を宙に飛ばして、逃げ出して行くのでした。そうして知らない家《うち》でも、自働電話でも何でも構わない。行きなり放題に飛込んで、救《たす》けを求めるかと思うと、進行中の電車や汽車に飛び乗りかけて、跳ね飛ばされたりするので、トテモ剣呑《けんのん》で仕様がないのです。……ええ……そうなんです。近頃は方々の店先に裸体画が殖《ふ》えて来ましたからね。おまけに秋口といっても、旭川の日中はまだ相当暑いのですからね。何でもソレらしいものを見さえすれば、絵葉書屋の前だろうが、川の中の洗濯女だろうが見境いは無い。又は一里先だろうが鼻の先だろうがおなじこと。悲鳴をあげて狂い出すのでトウトウ旭川の町中の大評判になってしまいました。
ところがそのうちに、そのエロ狂の骸骨男が、ドウ戸惑いをしたものか、旭川の警察署へ飛び込んで、保護を受けるようになりますと、世間は又広いもので、意外にもその骸骨男を引取りたいという、篤志家《とくしか》が現われて来ました。
その篤志家というのは、東京の目黒に在る精神病院の副院長で、その当時旭川に帰省していた、何とかいう富豪の医学士でしたが、その骸骨男……すなわちAの事を書いた新聞記事の切抜を持って、旭川署に出頭しますと、自分の研究材料としてAの身柄を引取りたい旨《むね》を、恭《うやうや》しく申出たものだそうです。もっとも最初のうちにAの精神状態を、新聞記事によって判断したその医者は、極めて著明な色情倒錯と思っていたそうで、ステキに珍らしい実例として、論文の材料にするつもりだったそうですが……ちょうど又、警察でも願ったり叶《かな》ったりのところだったので、厄払いのつもりで、よく調べもせずに引渡したものだそうですが……そうなるとそこは流石《さすが》に専門家だけあって、催眠術や、鎮静剤を巧みに使い分けながら、無事に東京まで連れて来て、自分の受持の病室に、首尾よくAを監禁してしまいました。そうして半年ばかり経過するうちに、栄養が十分に付いて来て、云う事がイクラカ筋立って来た頃を見計《みはから》って、なだめつ賺《す》かしつしながら色々と事情を聞き訊《ただ》してみますと……色情倒錯どころの騒ぎではない。大変な事実をAは喋舌《しゃべ》り初めたのです。
Aはその副院長の前で、谷山家の秘密を洗い渫《ざら》いサラケ出したばかりでなく、自分の発狂の真原因までも思い出して、アッサリ白状してしまったのでした。
Aは石狩川の上流を探検して、千辛万苦の末に、ようようの事で旭岳の麓の私の留守宅を探し当てたのです。そうして最早《もはや》、スッカリ原始生活に慣れ切っている久美子と、四人の子供達が、澄み切った真夏の太陽の下で、丸裸体《まるはだか》のまま遊び戯《たわむ》れている姿を、そこいらのトド松の蔭から、心ゆくまで垣間《かいま》見た訳ですが、その時のAの驚きはドンなでしたろう。夢にも想像し得なかった神秘的な光景に接して、開いた口が塞《ふさ》がらなかった事でしょう……のみならずそこでヤット一切の事情を呑み込んだAは、懐中していた新聞紙面の複写の中に在る久美子の写真と、実物とを引き合わせてみた時の喜びは又ドンナでしたろう。これこそ谷山家の一切合財を、地獄のドン底まで突き落すに足る大発見と思って、胸を轟《とどろ》かしたに違いありません。……その時まではまだ龍代が自殺していなかった筈ですからね……。
けれどもAはここで又、第二段の失策に足を踏みかけていることに気付きませんでした。つまりAはそこで、久美子と子供達の写真を、何枚か撮っただけで、一先《ひとま》ず探険を切上げて来ればよかったのですが、そうしなかったのがAの運の尽きでした。……もっともそのような、エロともグロとも形容の出来ないスバラシイ情景を、遠くから眺めたまま引返すというようなことは、新聞記者根性のAにとって絶対に不可能な事だったかも知れません。或はそのエロ・グロの女主人公《ヒロイン》に対して、A一流の冷酷な野心を起したものかも知れませんが、とにかく吸い寄せられるようにフラフラとなったAは、吾《わ》れ知らず熊笹を押し分けながら、その方向に近付いて行ったものです。
すると間もなく大変な事が起りました。
永い間、男気無しのまま、人跡絶えたモノスゴイ山奥に、原始生活をして来た気の強い女……ことにタッタ一人でアラユル飢寒と戦いながら、四人もの子供を育てて来た母性が、如何に慓悍《ひょうかん》狂暴な性格に変化するものかという事実は、普通人のチョッと想像の及ばないところでしょう。……まして況《いわ》んやです。ずっと以前に
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