にめぐらしていたケダモノが、その新聞記者だったのです。……ええ……そうですね。それじゃソイツの名前を思い出すまで仮りにAとでも名付けて、お話を進めておきますかね。
 何でもそのAという男は、谷山家の内情に精通している、お出入り同様の新聞記者で、熊狩や、スケートの名人だと自称しておりましたが、それは恐らく事実だったのでしょう。体格のいい、色の黒い、眼の光りの鋭い、如何《いか》にも新聞記者らしいツンとした男でしたがね。そんな風にして私を、谷山家の別荘に引止めながら、色んな事を質問したり、話しかけたりして、私の記憶を回復させよう回復させようと努力していたようです。
 ええ。もちろんそうですとも。とりあえず私の記憶を回復させた上で、素晴らしい新聞種を絞り出してくれようと思っていたに違い無いのですが、生憎《あいにく》なことにその結果は、全然、徒労に帰してしまいました。私の脳髄から蒸発してしまった過去の記憶は、モウ疾《と》っくにシリウス星座あたりへ逃げ去っていたのでしょう。それから後《のち》、容易な事では帰って来なかったのですが……。
 もっともその時に万一、私が過去の経歴を思い出していたら、話はソレッ切りで、目出度《めでた》し目出度しになっていたかも知れません。アンナ空恐ろしい思いをさせられないまま、音も香《か》もなく土になってしまったかも知れないのですがね……。

 それから約二週間ばかり経った、或る暑い日のことでした。炭坑王、谷山家の一粒種の女主人公で、両親も兄弟も無い有名な我儘者《わがままもの》で、同時に小樽から函館へかけた、社交界の女王と呼ばれていた、龍代《たつよ》さんと称する二十三歳になる令嬢が、小母さんと称する、中年の婦人を二三人お供に連れて、愛別から出来た新道をドライヴしながら、突然に、エサウシ山下の別荘へ遣って来たのです。そうして私は間もなく、その令嬢のお眼に止まる事になったのです……ええ。そうなんです……お話のテムポが非常に早いようですが、事実ですから致し方がありません。尤も後から聞いてみますと、その我儘女王の龍代さんは、小樽の本宅に廻って来たA記者の報告によって、私の事を承知するや否《いな》や、たまらない好奇心に馳《か》られたらしく、何も彼《か》も放《ほ》ったらかして、私を見に来たものだそうですが、しかも来て見るや否やタッタ一眼で、氏《うじ》も素性も知れな
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