は大正×年の夏の初めに、原因不明の仮死状態に陥ったまま、北海道は石狩川の上流から、大雨に流されて来た、一個のルンペン屍体《したい》に過ぎなかったのです……しかも頭髪や鬚を、蓬々《ぼうぼう》と生《は》やした原始人そのままの丸裸体《まるはだか》で、岩石の擦《こす》り傷や、川魚の突つき傷を、全身一面に浮き上らせたまま、エサウシ山下の絶勝に臨む、炭坑王谷山家の、豪華を極めた別荘の裏手に流れ着いて、そこに滞在していた小樽タイムスの記者、某《ぼう》の介抱を受けているうちに、ヤット息を吹き返した無名の一青年に過ぎなかったのです。
 イヤ。お待ち下さい。お笑いになるのは重々|御尤《ごもっと》もです。話が一々脱線し過ぎておりますからね……のみならずこの話は、谷山家の内輪《うちわ》でも絶対の秘密になっておりますので、御存じの無いのは御尤も千万ですが、しかし私は天地神明に誓ってもいい事実ばかりを、申上げているのです。イヤ。まったくの話です。そればかりじゃありません。只今から告白致します私の身の上話を、冷静な第三者の立場からお聴きになりましたら、それこそモットモット非常識を極めた事実が、まだまだドレくらい飛び出して来るかわからないのです。……ですから、そんなのを一々御心配下すったら、折角の告白がテンキリ型なしになってしまうのですが、しかし同時に、それがホントウに意外千万な、奇怪極まる事実であればあるだけ、それだけ谷山家の固い秘密として、今日まで絶対に外へ洩れなかったもの……という事実だけはドウカお認めを願いたいと思うのです。殊に内地と違いまして未開野蛮な……むしろ神秘的な処の多い北海道の出来事ですからね。その辺のところを十分に御|斟酌《しんしゃく》下すって、お聴き取りを願いましたならば、このお話がヨタか、ヨタでないか……精神病患者のスバラシイ幻想《イリュウジョン》か、それとも正気の人間が告白する、明確な事実|譚《ものがたり》かということは、話の進行に連れて、追々《おいおい》とおわかりになる事と思いますからね。
 ……ところでです。その小樽タイムスの記者某と、近隣の医師の介抱によりまして、ヤット仮死状態から蘇生しました私は、どうした原因かわかりませんが、自分自身の過去に関する記憶を、完全に喪失しておりましたのです。もっともその当時は、私の頭にヒドイ打撲傷が残っておりましたので、多分、どこか高
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