脊梁《せきりょう》山脈の中でも、人跡未踏の神秘境に相違ないのだから、その一軒家が何人《なんぴと》の住家であろうかは、容易に推測されない訳である。奇怪……不思議……といったような事実が、同乗の記者によって詳細に報道された。そうしてそのまま猟奇《りょうき》の輩《ともがら》の口端《くちは》に上って、色々な臆説の種になっているばかりである……という事実を、先生は多分、何かの雑誌か、新聞で御覧になった事でしょう。ハハア。まだ御覧にならない……。御研究がお忙しいのでね。成る程……それでは致し方がありませんが、何を隠しましょう、その一軒屋こそ、私が建てた愛の巣なのです。私が妻子と一所に、楽しい自給自足の生活を営んでいた、第二の故郷に相違ないのです。……イヤどうも……御免下さい。どうも胸が一パイになりまして……ハハイ……ハハイ……。私は石狩本流の絶壁から墜落したトタンに、そうした記憶をスッカリ喪《うしな》っていたのです。ええええ。事実ですとも事実ですとも……。
 私の戸籍が偽物であることは、私の生れ故郷の村役場に御照会下されば一目瞭然することです。その戸籍面を偽造して、私を初め谷山一家の人々を欺いていたのが、誰でもない、新聞記者のAだったのですからね。
 私が二度目の結婚問題に差し迫られたまま、旅行にカコ付けて家を飛び出したのも、かつは誰にも知れないようにAに面会してみたかったからでした。Aはその頃、小樽タイムスを罷《や》めて、九州地方をウロ付いているという噂でしたからね。何かしら私の過去に就いて、探りに行ったのじゃないか……といったような気がしたからです。それから二度目に、モウ一度家を脱け出した時も、そうした潜在意識に支配されていたのでしょう。何となく石狩の上流に行ってみたい。そうしたら何もかもわかるに違い無い……といったような気持になったからでした。
 併《しか》し、最早《もはや》そんな無駄骨折をする必要は無くなりました。私が完全に過去の記憶を回復しているのですからね……同時に、そのお蔭で、谷山家の養子事件を裏面《うら》からアヤツリ廻して来た、冷血残忍なAの手の動きを、ハッキリと見透かしながら、お話する事が出来るのですからね……。
 私は福岡県朝倉郡の造酒屋、畑中正作《はたなかしょうさく》の三男で、昌夫《まさお》と呼ばれていた者です。父の持山に葡萄《ぶどう》を栽培するのが目的で
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