ら召喚された東作爺が、ロスコー家裏手の日本屋自室で、厳重な取調《とりしらべ》を受けたのであったが、その申立《もうしたて》の内容にも、相当に怪奇な分子が含まれていた。
東作の全身には、ロスコー氏の金庫の中から発見された写真と同様の刺青がたしかに存在していた。それはその撮影と彩色の技術が如何に巧妙な、且《かつ》、優秀なものであるかを事実に証明しているものであったが、本人自身はその背負っている刺青の威勢のヨサにも似合わず、ただもう恐れ入った篤実そのもののような態度で、ビクリビクリと訊問に応ずるのであった。
「私は三十年ばかり前からコック兼、掃除男として御当家ロスコー様に御奉公申上ている者で御座います。お給金は毎月八十円を頂戴しまして、R市で玉突屋を致しております実の娘と、大学生の養子夫婦に毎月六十円ずつ分けてやりまして、残りの二十円を煙草代と酒代にしながら気楽な日を送っておりますような事で、貯金も只今は二千円余り御座いますので、死んだ後の事なぞチットモ心配致しておりませぬ。
只今のロスコー様の御夫婦仲はまことにお宜しいようで……ことにお二人の中でも奥様のマリイ様は見かけに寄らない気の強いお方で御座います。御主人が御心配なさるのを振切ってコンナ淋しい処に地面をお求めになって、御自分のお好みの通りの家をお建てになって、タッタ一人でお留守番をなさるのですからエライもので、雪の降る日や、雨風の日などは遠い郊外電車の停留場から歩いてお帰りになる御主人様が、却《かえ》ってお気の毒でなりませぬ。そのような話を私から聞きました娘夫婦も驚いて感心しておりますような事で……又、御主人のロスコー様の方は万事にお気の小さい、優しい一方の御方で御座いますが……それよりほかには御二方《おふたかた》の日常の御生活につきましては、詳しく存じも致しませぬし、申上る事も御座いませぬ。
昨夜はロスコーの若旦那様が私に「今夜はかなり遅くなる見込だから戸締を厳重にして早く寝なさい。表の玄関の合鍵は私が持って行くから裏口の締りだけ頼みます」といったようなお話で、そのままお出かけになりましたので、日が暮れると奥様にお夕飯を差上げましてから直ぐに、この部屋に引取りまして、久振りに手酌でユックリと一杯飲んで寝ました。
ところが年寄の癖で、夜中に小便に行きたくなりまして眼がさめますと、平生に似合わず頭が割れるように痛んでおりました。しかし白昼のようにいい月で御座いましたから、竹の皮の庭|草履《ぞうり》を穿きまして、裏の松原に出て用を足しますと、夕方の飲残りの酒を持って松原を抜けまして、外海岸の岩山に登って、そこの草原で燗瓶《かんびん》の口から喇叭《ラッパ》を吹きながら、銀のように打ち寄せて来る真夜中の大潮を見ておりまする中《うち》に、迎え酒が利きましたかして、又グッスリと眠ってしまったらしゅう御座います。そのうちに先刻の倫陀病院の代診さんに起されまして、ロスコー様が、海岸にブッ倒れて御座ったのを、タッタ今倫陀病院に担ぎ込んでいる。様子がおかしいから直ぐに介抱に来てくれと云われました時にはビックリ致しました。……いいえ。まったくで御座います。マリイ様がお亡くなりになりました事を聞きましたのは今が初めてで……何とも早や申上げようも御座いませぬ。いつも奥様から励まされ励まされしてヤット会社へお出かけになっておりました位気の弱いロスコー様が、あのようにお取乱しになるのも御尤《ごもっと》もな事で……。
私は只今、夜露に打たれましたせいか、身体《からだ》中が骨を引抜かれたようにカッタルう御座います。おまけに胸がムカ付いて眼がまわりますようで、口の中に腐った樟脳《しょうのう》のような臭気が致しまして……コンナ気持は生れて初めてで御座います。そんな次第で御座いますから、マリイ様がお亡くなりになりました事に就いては、私は全く何も存じませんので……ヘイ。それよりもロスコーの若旦那様の眼付が、今朝から少し変テコで御座いますので、そればかり心配致しております。お話の通りで御座いますなら、やはり心からマリイ様のお亡くなりになった事を悲しんでおいでになるので御座いましょう。お一人で居ったら、何をなさるか解からない気が致しますが、大丈夫で御座いましょうか。ずっと前に香港《ホンコン》でマリイ様との御婚約が破れそうになった時にも、ロスコー様はやはり、あんなようなヒステリーじみた御容態になられましたもので、私はこう申します中《うち》にも何となく、気になって気になってたまらないので御座います」
そんな事を繰返し繰返し云いながら東作は白髪《しらが》頭をシッカリと抱え込んで考えている。そのほかロスコー家の過去に就いては何を尋ねても返事をしない。特に刺青に関係した事となると牡蠣《かき》のように口を噤《つぐ》んでしまう。刺青の写真を突付けられても、冷めたい眼でジロリと見たきり、頭を頑強に左右に振るばかりで、一言も洩らさない態度が、極度に野蛮な、反抗的なものに見える。……のみならずその昨夜というのは陰暦二十九日の暗夜で、月なんぞは出なかった筈なのに、白昼のような満月が光っていたというのが頗《すこぶ》る怪訝《あや》しい。なるほど大潮には相違なかったが、測候所に問合わせる迄もない夜通しの曇空で、月どころか、星の影も見えなかった筈だが……と何度念を押しても東作爺は只ビックリした顔で、不思議そうに警官の顔を見まわすばかりである。しまいには頭が痛いせいか、面倒臭そうに眼を閉じて、
「それは旦那方が旧の暦日を御存じないからです。昨夜はたしかに旧の十五日に間違いなかったのです。たしかにマン丸いお月様が出ておりました」
と落付いて頑張る表情が如何にも真剣で、不思議であった。だから、とにかく現在のところでは東作が一番怪しい。とりあえずマリイ夫人殺しの嫌疑者として拘引してみようではないかという事に係官の意見が一致した。そうしてこの上は程遠からぬ倫陀病院に行って、直接ロスコー氏に就いて前後の事情を訊問して、何等かの手がかりを掴むよりほかに方法はないというので、係官の一行が、やがてロスコー家を引上げて出かけようとしているところへ、今まで倫陀病院でロスコー氏に附添っていた代診の弓削医学士が、白い服を着たまま息|堰《せ》き切って転がり込んで来た。その報告を聞いてみると又、一大事である。
最前からマリイマリイと連呼して泣きじゃくっていたロスコー氏が突然に静かになった。寝台の上に起直って両腕をシッカリと組んで動かなくなった。僅かな間に見違えるほど物凄く瘠せ衰えた顔に、両眼をジイッと据えて、窓の外の青空を凝視したまま黙りこくっているうちに、その眼の色が次第次第に物凄くなり、真夜中のようにギリリギリリと歯を噛鳴らし初め、突然、精神に異状を呈したらしく、そこいらに在る品物を取っては投げ……取っては投げするので、危なくて近寄れない。そのうちにタッタ今のこと、隙《すき》を窺ったロスコー氏は哀れにもポケットからピストルを取出し、自分の頭の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》上部を射撃して自殺してしまった。今すこし早く精神異状者と認めて処置しなかった事を、院長初め非常に恐縮している……という話であった。
係官の一行は今更のように狼狽した。まだ息を切らしている弓削医学士と一所《いっしょ》に現場に急行してみると、正に報告の通りで、裏庭の外海に面しているロスコー氏の病室内は、額縁や、薬瓶、植木鉢、泥、砂礫、草花、その他の器物や硝子《ガラス》の破片が、足の踏場もなく散乱している中に、脳漿《のうしょう》が飛散り、碧《あお》い両眼を飛出さしたロスコー氏が、鮮血の網を引被《ひっかぶ》ったまま穢《よご》れたピストルをシッカリと握って、寝台の上から真逆様《まっさかさま》に辷《すべ》り落ちている光景は、マリイ夫人の死状にも増して凄惨な、恐怖的なものであった。
警察の捜査方針はここに於て五里霧中に彷徨する事となった。出ない月を見た東作の陳述だの、事件の全体に因縁深く蔽い被《かぶ》さっているらしい英文の刺青に関する書類や写真だの、その説明の鍵を握っていたであろうロスコー氏の突然発狂の自殺などいう事実なぞを重ね合わせて考えてみると、蒲生検事を初め係官一同のアタマが、いつの間にか実際的な着眼点を見失なって、探偵小説式な架空や想像、推理の渦巻の中にグングン捲込まれて行くのであった。全体に痴情事件らしく見えながら、半分は巧妙な窃盗犯の手口も加味されている。単なる他殺が単なる他殺でなく、単なる自殺が単なる自殺でない……といった風に考えなければ、大変な間違いに陥りそうな気がして来たので、流石に老練の蒲生検事もウッカリ断定が下せなくなった。類犯ばかりを標準にして判断を附けるのが習慣のようになっている刑事連中などは、ただもう面喰ってしまっていた。これは到底吾々の手に合う事件じゃない。毛唐人の気持なんか吾々にわからないんだから……などと逃腰になる者さえ居た。
以上の報告を司法主任の警部から詳細に亘って聴取したR市警察の山口老署長も、やはり判断に迷ってしまったのであった。
普通の場合だと検事に対する部下の不平なぞを聴いてやって、シッカリ頼む……とか何とか激励するだけで、差出た意見を附加《つけくわ》えたり何かしないのが、温厚を以て聞こえた山口老署長の本分みたような習慣になっていたのが、今度という今度ばかりは例外になって来た。……というのは丁度その時に県庁の特高課が、ロスコー氏の自殺を重視している事がわかった。確かな理由は不明であるが、ロスコー氏の行動はズット以前から極秘密に特高課の監視を受けていたものらしく、その自殺を聞知した私服の特高課、外事課員が二人、山口署長に極秘密で面会し、事件の真相を聴取したいと申出た。その序《ついで》に……ロスコー氏の奉職している石油会社の本社でもこのS岬事件を相当重視しているらしい。R市支社の重役で日本語の達者なドラン氏が本日、識合《しりあ》いの特高課長の処へ出頭して、ロスコー氏の死因は自殺か、他殺か。本国へ打電する必要があるから極く内々で説明してもらいたい。東京の本社から人事係長(外人)と海軍大尉上りの日本人重役の二名が本日午後の急行で東京を出発したという電報が来たから、その二名が到着しない前に真相が判明していないと自分の責任になる虞《おそれ》があるので是非説明して欲しい。さもなければ当市の裁判所の検事か警察署長に紹介してもらいたい……というので非常に鄭重な態度で哀訴歎願して来た……という事実を外事課員が洩らしたので俄然、事態が二重、三重の意味で緊張して来た。流石に着実温厚を以て聞こえた老署長も、これには少々狼狽させられた。さもなくとも正体の掴みにくい事件の真相を最大限二三日の中《うち》に片付けなければ、日本の警察の威信に関するのみならず、愚図愚図《ぐずぐず》すると面倒な国際問題にまでも引っかかって行きそうな形勢になって来たので、ジッとしておれなくなった。
ところが幸いに最初からこのS岬事件に関係していた蒲生検事は、署長の同郷で、懇意な間柄だったので、そこに一道の活路が見出された。山口老署長は、やはりその夜の中に極秘密で蒲生検事に面会して色々と懇談を遂げた結果、とにかくその「刺青」なるものに就いて専門家の意見を聞いた上で、何とか方針をきめる事にしたら、どうであろう。いずれにしても、そんな奇怪な書類を中心にして、刺青をした人間ばかりが寄集まっている点が不思議といえば不思議である。しかも「刺青」の話に関する限り東作爺が頑として口を開かないところを見ると、そこに事件の秘密を解く鍵が隠れているのじゃないか……といったような事にアラカタ意見が一致したが、しかしR市のような比較的狭小な都市に刺青の研究家なぞいう者は居そうにない。むろん別にコレという程の心当りもないので、取敢えず、これも署長の小学時代の同窓として懇意なR大学の法医学教授、犬田博士を招いて、意見を聞いてみてはどうであろう……という事になった。
出張から帰ると間もなく、山口老
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