。奥さんが仔細《わけ》を尋ねる間《ま》もなく立ち上って、帽子を冠って、新しい靴下の上から、古い庭穿《にわば》きを突かけると、自転車に跨《またが》りながらドンドン都の方へ走り出した。
 一時間ばかり走って、やっと都の中央の、目貫《めぬ》きの処に開業している、遠藤という耳鼻咽喉科病院の玄関に乗りつけた松浦先生は、滝のように流るる汗を拭き拭き、通りかかった看護婦に名刺を出して診察を頼んだ。
「鯛の骨が咽喉《のど》へかかりましたので……どうかすぐに先生へ……」
 間もなく真暗な室《へや》に通された松浦先生は、白い診察服を着けた堂々たる遠藤博士と、さし向いに坐りながら、禿頭《はげあたま》をペコペコ下げて汗を拭き続けた。
「そんな訳で、気が急《せ》いておりましたせいか、ここの処に鯛の骨が刺さりまして、痛くてたまりませんので……実は先年、講習会へ参りました時に、先生のお話を承りまして……ある老人が食道に刺さった鯛の骨を放任しておいたら、その骨が肉の中をめぐりめぐって、心臓に突き刺さったために死亡した……という、あのお話を思い出しましたので……」
「ハハハハハ……イヤ。あの話ですか」
 と遠藤博士は、肥った身体《からだ》を反《そ》り気味にして苦笑した。
「あんな例は、滅多にありませんので……さほど御心配には及ぶまいと思いますが」
「ハイ……でも……実は、忰《せがれ》が、来年大学を卒業致しますので、それまでに万一《もしも》の事がありましては申訳ありませんから、念のために是非一ツ……」
「イヤ……御尤《ごもっと》もで……」
 と遠藤博士は苦笑しいしい金ぶち眼鏡をかけ直して、ピカピカ光る凹面鏡《おうめんきょう》を取り上げた。松浦先生の口をあけさせて、とりあえず喉頭鏡を突込んでみたが、そこいらに骨は見当らなかった。けれども痛いのは相変らず痛いというので、それでは食道鏡を入れてみようという事になった。
 松浦先生は食道鏡というものを初めて見たらしかったが、奇妙な恐ろしい恰好の椅子に坐らせられて、二名の看護婦に両手を押えられたまま食道鏡の筒をさしつけられると、フト又青い顔になって遠藤博士を見上げた。
「これが……胃袋を突き通した器械で……」
 と云いかけて口籠もった。遠藤博士は噴《ふ》き出した。
「アハハハハハ、あの話を御記憶でしたか。あれはソノ何ですよ。あれは西洋で初めて食道鏡を使った時の失敗談で、手先の器用な日本人だったら、あんなヘマな事をする気遣《きづか》いはありませんよ。サア、御心配なく口を開いて……もっと上を向いて……そうそう……」
 食道鏡が突き込まれると、松浦先生は天井を仰いだまま、開口器を噛み砕くかと思うほど苦悶し初めた。大粒の涙をポトポト落しながら、青くなり、又赤くなったが、そんなにして残りなく調べてもらっても、骨らしいものはどこにも見つからなかった。
 しかし、それでも唾を飲み込んでみると、痛いのは相変らず痛いというので、思い切って今一度|診《み》てもらいたいと云い出した。遠藤博士も苦笑しいしい、今一度食道鏡を突込んだ。
 こうして、三度までくり返したけれども、骨は依然として見付からない。しかし痛い処はやはり痛いというので、流石《さすが》の遠藤博士も持て余したらしく、懇意なX光線の専門家に紹介してやるから、そこで探してもらったらよかろう……と云って名刺を一枚渡した。

 X光線によって照し出された鯛の骨の在所《ありか》を、正面と、横からと、二枚の図に写してもらった松浦先生は、又も遠藤博士の処に引返して来たが、博士はたった今急患を往診に出かけたというので、今度は町外れに在る大学の耳鼻科に駈け込んだ。
 そこには若い医員が一パイに並んで診察をしていたが、その中の一人が、松浦先生の話をきくと、X光線の図には一瞥《いちべつ》だも与えないで冷笑した。
「……馬鹿な……そんな小さな骨がX光線《レントゲン》に感じた例はまだ聞きません。こちらへお出でなさい。とにかく診《み》てあげますから」
 といううちに松浦先生を別室に連れて行って、又も奇妙な、恐ろしい形の椅子に腰をかけさせた。しかしその時には松浦先生の食道が、一面に腫《は》れ爛《ただ》れて、食道鏡が一寸|触《さわ》っても悲鳴をあげる位になっていたので、若い医員はスコポラミンの注射をしてから食道鏡を入れた。
 けれども、ここで又三回ほど食道鏡を出したり入れたりされているうちに、松浦先生はもうフラフラになってしまった。
「もう結構です。骨が取れましたせいか、痛みがわからなくなりましたようで……その代り何だか眼がまわりますようで……」
「それじゃ、このベッドの上で暫く休んでからお帰りなさい。注射が利いているうちは眼がまわりますから」
 と云い棄てて、若い医員は立ち去った。
 松浦先生は……しかしベースボ
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