た。未亡人は両手に云い知れぬ力を籠めて云った。
「マア何というお勇ましいお言葉でしょう。そのお言葉こそ私がお待ちしていたお言葉です。それで私はきょうこの鼓と別れるお祝いにつまらないものを差し上げたいと思いまして……」
「アッ……それは……」と私は腰を浮かした。しかし未亡人の手はしっかりと引き止めた。
「いいえ……いけません……」
「でもそれは又別に……」
「いいえ……今日只今でなければその時は御座いません……サ……お前早くあれを……」
と妻木君をかえり見た。
妻木君は追い立てられるように室を出た。
あとを見送った未亡人はやっと私の手を離してニッコリした。
私は最前の洋酒の酔いがズンズンまわって来るのを感じながら両手で頬と眼を押えた。
頭が痛い……と思いながら私は眼を閉じて夜具を頭から引き冠った。すると今まで着た事のない絹夜具の肌ざわりを感ずると共に、得《え》ならぬ芳香がフワリと鼻を撲《う》ったのがわかった。
私は全く眼が醒《さ》めた。けれども起き上る前にシクシクと痛む頭の中から無理に記憶を呼び起していた――さっきあれからどうしたか――。
眼の前に御馳走の幻影が浮んだ。それは皆珍しいものばかりで贅沢を極めたものであった。そのお膳や椀には桐の御紋が附いていた。
その次には晴れやかな鶴原未亡人の笑顔がまぼろしとなって現われた。
「あやかしの鼓とお別れのお祝いですから」
というので無理に盃をすすめられたことを思い出した。
「もうお一つ……」
とニッコリ白い歯を見せた未亡人の眼に含まれた媚《こび》……それをどうしても飲まぬと云い張った時、飲まされた「酔いざまし」の水薬の冷たくてお美味《い》しかったこと……。
それから先の私の記憶は全く消え失せている。只あおむけに寝ながらジッと見詰めていた電燈の炭素線のうねりが不思議にはっきりと眼に残っている。
私は酔いたおれて鶴原家に寝ているのだ。
「失策《しま》った」と私は眼を開いて夜具の襟から顔を出した。
さっきの未亡人の室《へや》に違いない。只電燈に桃色のカバーがかかっているだけが最前と違う。耳を澄ますとあたりは森閑《しんかん》として物音一つない。
「ホホホホホホホホホ」
と不意に枕元で女の笑い声がした。私は驚いて起きようとしたが、その瞬間に白い手が二本サッと出て来て夜着の上からソッと押え附けた。同時にホンノリと赤い鶴原未亡人の顔が上からのぞいてニッタリと笑った。溶けそうな媚を含んだ眼で私を見据えながら、仄《ほの》かに酒臭い息を吐いて云った。
「駄目よ。もう遅いわよ……諦らめて寝ていらっしゃいオホホホホホホホ」
錐《きり》で揉《も》むような痛みを感じて私は又頭を枕に落ち付けた。そうして何事も考えられぬ苦しさのため息をホッと吐《つ》いた。
コトリコトリと音がする。私の枕元で未亡人が何か飲んでいるらしく、やがて小さなオクビが聞えた。同時に滑らかな声がし初めた。
「とうとうあなたは引っかかったのね。オホホホホ……ほんとに可愛い坊ちゃん。あたしすっかり惚れちゃったのよ。オホホホホ」
私は頭の痛いのを忘れてガバとはね起きた。見れば私は新しい更紗模様の長|繻絆《じゅばん》一つになってビッショリと汗をかいている。
未亡人も友禅模様の長繻絆をしどけなく着て私の枕元に横坐りをしている。前には銀色の大きなお盆の上に、何やら洋酒を二、三本並べて薄いガラスのコップで飲んでいたが、私が起きたのを見ると酔いしれた眼で秋波《しゅうは》を送りながら空《から》のグラスをさしつけた。私は払い除《の》けた。
「オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに」
「エッ……」
「オホホホホ」と未亡人は一層高い調子で止め度なく高笑いをした。私はクラクラと眼が眩《くら》みそうになって枕の上に突伏した。
「あのね……」
と未亡人はやっと笑い止んだ。その声はなめらかに落ち付いていた。私の枕元に坐り直したらしい。
「音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の生命《いのち》にかかわることなんですから。よござんすか……。あたしね。この間往来でお眼にかかった時にすぐにあなただということがわかったのです。だって若先生の戒名をあなたが落したのを拾ったんですもの。それから妻木を問い訊してあなたと御一緒にお菓子をいただいたあと、それを隠そうとしたことを白状させました。そうしてそれと一緒にあなたのお望みのお話も妻木からきいたんです。ですからあの手紙を書かせたんです。そうしてその時にもう今夜の事を覚悟していました。よござんすか」
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