。まだあの鼓をお打ちにならないからだと申します……オホ……ほんとに失礼なことばかり……」
未亡人は赤面して私の顔を見た。私もその時急に耳まで火照《ほて》って来るのを感じつつ苦笑した――モナカの事件も存じております――と云われそうな気がして……。
「けれども私もすこし考えが御座いましたので、甥に筆を執《と》らせましてあのような手紙を差し上げさせましたので……まことに申訳《もうしわけ》……」と未亡人は頭を下げた。
「どう致しまして……」
と私もやっとの思いで初めて口を利くと慌てて袂からハンカチを出して顔を拭いた。途端に頭の上の電燈が眩しく紫色に灯《と》もった。
「何か御用で……」と妻木が顔を出した。未亡人はいつの間にか呼鈴《ベル》を押したらしい。
「お前用事が済んだのかえ」と云いつつ未亡人はジロリと妻木君を見据えたが、その一瞬間に未亡人の眼が、冷たいというよりも寧《むし》ろ残忍な光りを帯びたのを私はありありと見た。私の神経は急に緊張した。嘗てきいていた「美人の凄さ」が一時に私の眼に閃めき込んだからである。そうして同時にその「美しい凄さ」にさながら奴隷のように支配されている妻木君――若先生の姿がこの上なくミジメに瘠せて見えたからである。
「ハイ。すっかり……」と妻木君は女のように、しとやかに三つ指を支《つ》いた。
「……じゃこちらへお這入り。失礼して……あとを締めて……それから、その鼓を四ツともここへ……」
その言葉の通りに妻木君は影のように動いて四ツの鼓を未亡人と私の間に並べ終ると、その傍《かたえ》にすこし離れてかしこまった。
未亡人は無言のまま四ツの鼓を一渡り見まわしたが、やがてその中の一つにジッと眼を注いだ――と思うとその頬の色は見る見る白く血の気が失せて、唇の色までなくなったように見えた。
私たち二人も固唾《かたず》を呑んで眼を瞠《みは》った。
いい知れぬ鬼気がウッスリと室《へや》に満ちた。
突然かすかな戦慄が未亡人の肩を伝わったと思うと、未亡人はいつの間にか手にしていた絹のハンカチで眼を押えた。
私はハッとした。妻木君も驚いたらしい瞬《まばた》きを三ツ四ツした。そのまま未亡人は二分か三分の間ヒソヒソと咽《むせ》び泣いたが、やがてハンカチの下から乱れた眉と睫《まつげ》を見せた。それから小さな咳を一つすると繊細《かぼそ》い……けれども厳《おごそ》かな口調で云った。
「わたくしはこんな時機の来るのを待っておりました。こうして私とこの鼓との間に結ばれました因縁を断ち切って頂こうと思ったので御座います」
「因縁……」と私は思わず口走った。
「それはどういう……」
「それは私が私の身の上に就《つい》て一口申し上ぐれば、おわかりになるので御座います」
「あなたの……」
「ハイ……しかし只今は、わざとそれを申し上げません。押しつけがましゅう御座いますけれども、それは私の生命《いのち》にも換えられませぬお恥ずかしい秘密で御座いますから、この四ツの鼓の中から『あやかしの鼓』をお選《よ》り出し下すって、物語りに伝わっております通りの音色をお出し下さるのを承わった上で御座いませぬと……まことに相済みませぬが、只今それをお願い申し上げたいので御座いますが……」
未亡人の言葉の中には婦人でなければ持ち得ぬ根強い……けれども柔らかい力が籠っていた。三人の間には更に緊張した深い静けさが流れた。
不意にある眼に見えぬ力に打たれたように恭《うやうや》しく一礼しながら私はスラリと座布団を辷り降りて羽織を脱いだ。そうしてイキナリ眼の前の桜の蒔絵《まきえ》の鼓に手をかけると、ハッと驚いて唇をふるわしている未亡人を尻目にかけた。そうして武士が白刃の立ち合いをする気持ちで引き寄せて身構えた。
「あやかしの鼓」の皮は、しめやかな春の夜《よ》の気はいと、室《へや》に充ち満ちた暖かさのために処女の肌のように和《やわ》らいでいるのを指が触わると同時に感じた。その表皮と裏皮に、さらに心を籠めた息を吐きかけると、やおら肩に当てて打ち出した。……これを最後の精神をひそめて……。
初めは低く暗い余韻のない――お寺の森の暗《やみ》に啼《な》く梟《ふくろう》の声に似た音色が出た。喜びも悲しみもない……只淋しく低く……ポ……ポ……と。
けれども打ち続いて出るその音が私の手の指になずんでシンミリとなるにつれて、私は眼を伏せ息を詰めてその音色の奥底に含まれている、或るものをきくべく一心に耳を澄ました。
ポ……ポ……という音の底にどことなく聞こゆる余韻……。
私は身体《からだ》中の毛穴が自然《おのず》と引き緊《し》まるように感じた。
私の先祖の音丸久能《おとまるくのう》は如何にも鼓作りの名人であった。けれどもこの鼓を作り上げた時に自分が思っている以外の気もちがまじっ
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