残者なのだ。この鼓の呪いにかかって……痩せ衰えて……壊す力もなくなったのだ」
と云いつつすこし暗くなった外をかえり見て独言《ひとりごと》のように云われた。
「もう来るかも知れぬ、鶴原の後家さんが……」
私はうな垂れて鶴原家の門を出た。
この日のように頭の中を掻きまわされたことは今までになかった。こんな家《うち》が世の中にあろうとは私は夢にも思い付かなかった。何もかも夢の中の出来事のように変梃《へんてこ》なことばかりでありながらその一つ一つが夢以上に気味わるく、恐ろしく、嬉しく、悲しかった。
恩義を棄て、名を棄て、自分の法事のお菓子を喰べられる若先生――それを甥《おい》だと偽って吾が家に封じこめて女中同様にコキ使っているらしい鶴原子爵未亡人……そうしてあの美しい化粧室、あの薄気味のわるい病室、皮革《かわ》の鞭、「あやかしの鼓」――何という謎のような世界であろう。何というトンチンカンな家庭であろう。眼で見ていながら信ずる事が出来ない――。
こんなことを考えて歩いているうちに、私はふと自分の懐中が妙にふくらんでいるのに気が付いた。見れば今しがた玄関で若先生が押し込んだ菓子折の束がのぞいている。私はそれを引き出してどこに棄てようかと考えながら頭を上げた。そのはずみに向うからうつむいて来た婦人にブツカリそうになったので私はハッと立ち止《とど》まった。
向うも立ち止まって顔を上げた。
それは二十四、五位に見える色の白い品のいい婦人であった。髪は大きくハイカラに結っていた。黒紋付きに白襟《しろえり》をかけていたが芝居に出て来る女のように恰好がよかった。手に何か持っていたようであるがその時はわからなかった。
私はその時何の意味もなくお辞儀をしたように思う。その婦人もしとやかにお辞儀をしてすれ違った。その時に淡い芳香が私の顔を撫でて胸の奥までほのめき入った。
私は今一度ふり返って見たくてたまらないのを我慢して真直ぐに歩いたために汗が額にニジミ出た。そうして、やっと笄橋《こうがいばし》の袂《たもと》まで来ると、不意に左手の坂から俥《くるま》が駆け降りて来て私とすれ違った。私はその拍子にチラリとふり向いた。
黒い姿が紫色の風呂敷包みを抱えて鶴原家の前の木橋の上に立っていた。白い顔がこっちを向いていた。
私は逃げるように横町に外《そ》れた。
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この間は失礼しました。
私はあの鼓の魔力にかかって精魂を腐らした結果御覧の通りの無力の人間に成り果てました。しかしその核心には、まだ腐り切っていない或るものが残っていることを君は信じて下さるでしょう。私もそう信じてこの手紙を書きます。
二十六日の午後五時キッカリに鶴原家にお出《いで》が願えましょうか。御都合がわるければそれ以後のいつでもよろしいから、きめて下さい。時間はやはりその頃にお願いしたいのです。
今度お出での時にはあやかしの鼓がきっと君のものになる見込みが附きました。尚その時に君がまだ御存じのない秘密もおわかりになることと思います。それは矢張り音丸家と鶴原家に古くから重大な関係を持っていることで、君にとっては非常に意外な、且《か》つ不可思議な事実であろうことを信じます。
しかし来られる時に誠に失礼ですが御註文申し上げたいことがあります。奇怪に思われるかも知れませんが是非|左様《さよう》願いたいと思います。
二十六日までにまだ十日ばかりありますからその間に君は一切の服装を新調して来て頂きたい。鼓の家元の若先生らしく、そうして出来るだけ立派な外出姿に扮装して来て頂きたい。無論誰にも秘密でです。理由はお出《いで》になればすぐわかります。東洋銀行の小切手金一千円也を封入致しておきます。鶴原未亡人の名前ですが私の貯金の一部です。私の後を継いで下すった御礼の意味とお祝いの意味を兼ねて誠に軽少ですが差し上げます。尚私たちお互いの身の上は今まで通りとして一切を秘密にして下さい。鶴原家に来られてもです。
あやかしの鼓が百年の間に作って来た悪因縁が、君の手で断ち切れるか切れないかは二十六日の晩にきまるのです。同時に七年間一歩もこの家の外に出なかった僕が解放されるか否かも決定するのです。君の救いの手を待ちます。
三月十七日[#地から2字上げ]高林靖二郎
音丸久弥様
[#ここで字下げ終わり]
私はこの手紙を細かく引き裂いて自動車の窓から棄てた。ちょうど芝公園を走り抜けて赤羽橋の袂を右へ曲ったところであった。
眼の前の硝子《ガラス》板に私の姿が映ってユラユラと揺れている。
三越の番頭が見立ててくれた青い色の袷《あわせ》に縫紋《ぬいもん》、白の博多帯、黄色く光る袴《はかま》、紫がかった羽織、白足袋にフェルト草履《ぞうり》、上品な紺羅紗《こんらしゃ》のマントに同じ色の白リ
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