ノリと赤い鶴原未亡人の顔が上からのぞいてニッタリと笑った。溶けそうな媚を含んだ眼で私を見据えながら、仄《ほの》かに酒臭い息を吐いて云った。
「駄目よ。もう遅いわよ……諦らめて寝ていらっしゃいオホホホホホホホ」
 錐《きり》で揉《も》むような痛みを感じて私は又頭を枕に落ち付けた。そうして何事も考えられぬ苦しさのため息をホッと吐《つ》いた。
 コトリコトリと音がする。私の枕元で未亡人が何か飲んでいるらしく、やがて小さなオクビが聞えた。同時に滑らかな声がし初めた。
「とうとうあなたは引っかかったのね。オホホホホ……ほんとに可愛い坊ちゃん。あたしすっかり惚れちゃったのよ。オホホホホ」
 私は頭の痛いのを忘れてガバとはね起きた。見れば私は新しい更紗模様の長|繻絆《じゅばん》一つになってビッショリと汗をかいている。
 未亡人も友禅模様の長繻絆をしどけなく着て私の枕元に横坐りをしている。前には銀色の大きなお盆の上に、何やら洋酒を二、三本並べて薄いガラスのコップで飲んでいたが、私が起きたのを見ると酔いしれた眼で秋波《しゅうは》を送りながら空《から》のグラスをさしつけた。私は払い除《の》けた。
「オホ……いけないこと? 弱虫ねあなたは、オホホホ……でもこうなっちゃ駄目よ。どんなにあなたがもがいても云い訳は立たないから。あなたは私と一緒に東京を逃げ出して、どこか遠方へ行って所帯を持つよりほかないわよ……今から……すぐに」
「エッ……」
「オホホホホ」と未亡人は一層高い調子で止め度なく高笑いをした。私はクラクラと眼が眩《くら》みそうになって枕の上に突伏した。
「あのね……」
 と未亡人はやっと笑い止んだ。その声はなめらかに落ち付いていた。私の枕元に坐り直したらしい。
「音丸さん。よく気を落ちつけて、まじめにきいて頂戴よ。あなたと私の生命《いのち》にかかわることなんですから。よござんすか……。あたしね。この間往来でお眼にかかった時にすぐにあなただということがわかったのです。だって若先生の戒名をあなたが落したのを拾ったんですもの。それから妻木を問い訊してあなたと御一緒にお菓子をいただいたあと、それを隠そうとしたことを白状させました。そうしてそれと一緒にあなたのお望みのお話も妻木からきいたんです。ですからあの手紙を書かせたんです。そうしてその時にもう今夜の事を覚悟していました。よござんすか」

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