れていらっしゃるのです。その職人はこの家《うち》のおためを思ってそう云ったのです。本当はとてもいい鼓……」
 と云いも終らぬうちに妻木君の表情が突然物凄いほどかわったのに驚いた。眉が波打ってピリピリと逆立った。口が力なくダラリと開くとまだモナカの潰《つぶ》し餡《あん》のくっ付いている荒れた舌がダラリと見えた。
 私は水を浴びたようにゾッとした。これはいけない。この青年はやっぱり気が変なのだ。それも多分あやかしの鼓に関係した事かららしい。飛んでもないことを云い出した……と思いながらその顔を見詰めていた。
 けれどもそれはほんの一寸《ちょっと》の間《ま》のことであった。妻木君の表情は見る見るもとの通りに冷たく白く落付くと同時に、ふるえた長い溜め息がその鼻から洩れた。それから眼と唇を閉じて腕を拱《く》んでジッと何か考えていたが、やがて眼を開くと同時にハッキリした口調で云った。
「承知しました。お眼にかけましょう」
「エッ見せて下さいますか」と私は思わず釣り込まれて居住居《いずまい》を直した。
「けれども今日は駄目ですよ」
「いつでも結構です」
「その前にお尋ねしたいことがあります」
「ハイ……何でも」
「あなたはもしや音丸という御苗字ではありませんか」
 私はこの時どんな表情《かおつき》をしたか知らない。唯妻木君の顔を穴のあく程見詰めてやっとのことうなずいた。そうして切れ切れに尋ねた。
「……どうして……それを……」
 妻木君は深くうなずいた。悄然《しょうぜん》としていった。
「しかたがありません。私は本当のことを云います。あなたのお家《うち》の若先生から聞きました。私は若先生にお稽古を願ったものですが……」
 私はグッと唾を飲み込んだ。妻木君の言葉の続きを待ちかねた。
「……若先生は伯母《おば》からあの鼓のことを聞かれたのです。あの鼓はほんのお飾りでホントの調子は出ないものだと或る職人が云ったが、本当でしょうかってね。そうすると若先生は……サア……それを打って見なければわからぬが、とにかく見ましょうということになってね……七年前のしかもきょうなんです……この家《うち》へ来られてその鼓を打たれたんです。それからこの家《うち》を出られたのですがそのまんま九段へも帰られないのだそうです」
「若先生は生きておられるのですか」
 と私は畳みかけて問うた。妻木君は黙ってうなずいた。
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