台=戦場」の厳粛さに打たれるからではあるまいか。
戦国の世のこと……名前は忘れたが、敵味方二人の騎馬武者が、夕暮れの余吾の湖のほとりで行き遭った。
「ヤアヤア、それなる御方に物申す。お見受け申す処、しかるべき大将と存ずる。願わくは一合わせ見参仕りたい」
「イヤ、これはお言葉までもないこと。なれども、暫時お待ちあれ。手前の槍は雑兵の血で汚れておりますれば……」
といううちに、その武士は、かたわらの湖に槍の穂先を浸して、ザブザブと洗い始めた。その武者振りの見事さに、相手は感に堪えて見惚れさせられた。かくて互いに槍を合わせること十数合に及んだが、そのうちにとうとう真暗になってしまったので一方が槍を引いた。
「待たれよ。もはや、槍の穂先も見えぬげに御座れば、残念ながらこれにてお別れ申そう」
「いや、某もさように存じておったところ……」
「さらば」
「さらば」
というのでドロンゲームになったが、後にこの二人は某侯の御前で出会して、本名を名乗り合って莫逆の友となった……というような話が「常山紀談」に載っている。
外国は知らず、日本の戦争はここまで「純美化」し、「能化」している。美しく名乗りをあげ、美しく戦い、美しく死に、又は殺すべく……人間性の真剣味を極度にまで発揮すべく……死生を超越して努力している。
ここに於てか、能は、戦争の真剣味以上に高潮したる、真剣美そのものの現われでなければならぬ事がわかるであろう。
しからば現代の能は、どこまで死生の上に超越しているか。どこで砲煙弾雨以上の火花を散らし、白兵戦以上の屍山血河の間を悠遊しているか。……オット、脱線脱線……サテその次に……。
スポーツは「平和時代に於ける人間の争闘精神のあらわれ」だと言える。但し、議会の乱闘なぞとは全然正反対の意味に於けるアラワレなので……しかもその目的が利欲の観念を含まぬ、純粋な意味の勝敗のみに限られているだけに、吾々の日常生活や戦争なぞよりもはるかに高潮した肉体と精神の純真純美さを、あらゆる刹那に発揮し得るように出来ている。換言すれば、生活の極致のノンセンスが戦争になる。戦争のノンセンスの極致がスポーツとなるので、生活から戦争が生まれ、戦争からスポーツが生まれる。そうしてそのスポーツをもう一つノンセンスにしたものが、舞い、歌い、囃子(胴上げ、凱歌、拍子がその濫觴……だかどうか知らないが)となるわけである。そうしてまた、その舞い、歌い、囃子の中でも、最もノンセンスなものが「能」なのだからトテモやり切れない。
こうして人類の文化は漸次「生活」から「能」へと進化高潮しつつある。現代のスポーツ流行はそうした進化の一階段に過ぎないので、喜多実氏がテニスのスタイルを能の中に体現し、松野奏風氏が素早くこれをスケッチしたのも、決して偶然の事ではない。吾が喜多流の根本精神が、かような進化の道程と合致している好例証である。将来の喜多流万々歳の瑞兆に外ならぬのである。
「生活+《プラス》戦争+《プラス》スポーツ÷0=能」の意味がわかったかナ?……ウン、わかった。……諸君なかなか頭がいい……。
ナニ、わからない。+……+……ナルホド。……÷0=能の「0」はそもそも何じゃと言うのだね。アハハハハこれは説明せん方がよかろう。テンテレツク天狗の面……だからな……。
……どうも弱ったな。そんなにわかりたければ、喜多実君か松野奏風君にきいてみるさ。両君はその「0」を掴むべく夢中になって御座るようだから……。
……オット……断っておくが、それは「金」の事じゃないよ。ハハハハ。
底本:「夢野久作全集7」三一書房
1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
1992(平成4)年2月29日第1版第12刷発行
初出:「喜多」
1928(昭和3)年3月
※底本では、ファイル本文の冒頭に置いた図が、表題として扱われています。
※冒頭の図版の太線素片は、底本では点線です。
※底本の解題によれば、初出時の署名は「※[#「やまいだれ+惡」、第3水準1−88−58]見鈍太郎」です。
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年7月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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