は恍惚として虚に憑り風に御する底の「能」の心境と一致しているのではあるまいか。又は鉄塊上の一点を狙って大ハンマーを繰返し繰返し振り下す青服の壮漢の、焦らず弛まぬ純誠純一な身心の活動美も、又ソックリそのまま能のソレに当てはめられはしまいか。
 見たまえ! 物を運び、物を操り、作り、投げ、又は受取る……なぞいう稼働者の態度を。……台所で働く女中の身体のこなしまでも、しかもそれが練達洗練された三昧に入っている所作である限り……その心境がその仕事に対して純一無雑である限り……そこに能楽の型と同じ真実味の横溢した「人間美」が後光を放っているではないか。
 それが日常生活に於ける人間美の精髄ではないか。

「天神丸ヨーイ。デエコン煮えたかア――」と怒鳴る船乗の声は、永年波と風と、海の広さを相手として鍛えられたおかげで、立派に押えの利いた甲張りになっている。そのほか駅の構内で怒鳴りまわる貨物仲仕の声、魚市場の問屋のセリ声、物売の声、下足番の声、又は狂い飛ぶ火花と、轟々たる機械の大噪音の中に、一糸を乱さず、職工を叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]する錆びた声……なぞの中には、松籟、濤韻と対比すべき或るものを含んでいることを、よく気付かせられる。

 これを要するに、吾々の日常生活に於ける所作や発声は、その目的が何であるに拘らず、真剣に鍛えられて来るに従って、「能」のソレに近づいて来る。「生活の精華、即、能」であることを多少に拘らず証拠立てて来る。

 戦争となると、日常生活よりも真剣味が高潮しているだけに、一層この感が深い。一度火蓋を切ったが最後、全戦線が「能的の気魄」をもって充たされていると言っていいであろう。その砲煙弾雨の中を一意敵に向って散開し、躍進する千変万化の姿は、男性の姿態美の中でも、最高潮した「気をつけ」の緊張美以上に超越したものの千変万化でなければならぬ。勇ましいとも、美しいとも、尊いとも、勿体ないとも、涙ぐましいとも、何ともかんともたとえようのない人間美の現われでなければならぬ。更にその中で、毅然として勝敗の外に立ちつつ、全局を支配して行く名将の心境(というものがあるとすれば)、それこそ正に舞曲を以て天命の所作と心得ている能楽師(そんな人がいるとすれば)の心境と一致するものではあるまいか。

 能を見て頭が下がるのは、かように生死以上の生死をあらわす「舞
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